■ 今は躓きの石が、未来はあなたを救う / ローマ人への手紙9:18~33 (2007-08-19)
地球上、生き物の主人は勿論、人間である。 しかし、人間は主人が必要なのである。その主人こそ、創造主である神なのだ。 この神から離れてしまったところに、人間の不幸がある。この方を拒んだところに、人間世界の混沌がある。
犬、この生き物は特に主人を必要とする。そのくせ、主人を拒んでしまうわがままな性質も持っている。 しかし主人を主人としている時、犬自身は一番安心している。なのに、主人を主人としていない犬は、不安で不安で精神的に支障さえ来たしている。と、言うことは、犬の方が人間より、自分に対して素直なのかも知れない。 人間は創造主である神を知ると、平安になる。それは自分の主人を知ったからだ。 このように人と犬は似ていても違う。それは人が犬を造ったのではないということだ。 そもそも人間が宗教心を持っているのは、人が神によって造られ、神との交わりにおいて、最高の平安を持っていたからである。
この世界、地球にある恵み、自然界を人は荒らし、食いつくし、自然のサイクルを破壊してきた。特に20世紀後半からは物凄いスピードで自然環境を破壊している。神が人間に意図されたことは、支配者になるように、であった。支配者とは力と権力ですべてを虐げ、荒らしつくす者ではなく、環境を統治し、バランスを保持し、営々と栄える都市を築くべきであった。
神はキリスト・イエスを地上に送ってくださった。それは人がイエスを通して、神に帰り、人間本来の生き方、考え方に帰るためであった。しかし、人間にとってイエスは躓きの石でもあった。イエスは厄介で目障りな存在となった。それは彼らが、自分の罪を、イエスによって指摘されてしまうからである。イエスは、今も煙たがられ、拒まれている。人間は自分にとって都合の良い宗教を今日も探し続ける。それは宗教と言う名目ではないが、信頼と生き甲斐を与えるものなら、あきらかに偶像(宗教)となっていく。
神の恩寵の不思議を思う。 それは躓きの石が、同時に救いの岩となることだ。 ローマ書9章に神の不思議と恵みを語るパウロの言葉がある。二つの相反する世界を一つの存在、一つの真理、神の摂理として括ってしまわれることである。 「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。 『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」 いかがであろう。合い交わらない両極端を、一つに結んでしまわれるのが愛の神の力であり、アガペーなのである。仮に人間がこれを語ったならば、二重人格者と言われてしまうが、創造主はそうではない。 更にこうある。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
信仰生活、クリスチャンは幾度も躓く。だが、そうであることは当然だと思う。躓き倒れ、起き上がっては又躓く。それでいいではないか。そうやって、人間はやがてしっかりとした足どりを知るのだから。 何故なら、彼を信じることでしか義とされない自分を、躓き倒れ起き上がるといった繰り返しの訓練で知るからだ。
起き上がるとき、私達はキリストが助け起こしてくれることを体験する。そうでなければ、そうは幾度も立ち上がれない。 「彼に信頼するものは失望させられない」とある。 このみ言葉に、今もまだ信頼できていないとしたら、私にしろあなたにしろ今日も躓いているのかも知れない・・・・