■ Freedom (自由) / ローマ人への手紙7:1~14 (2007-05-20)
連れ添った夫が亡くなった場合、その妻は自由な身となる。 同様に律法に縛られていた人が、その律法のために身代わりに死んでくれる、という人が仮にいたら、その人は律法から開放されて自由な身となる。
通常の世界では、身代わりになれる人もいないし、それだけの価値を持っている人間もいまい。しかし、我々にはキリストがおられる。彼がすべての律法の責めを背負ってくださったので、イエスを信じる私達は、今や自由の身である。まさに、Freedom!自由な身となった。
ローマ書は言う。人は旧約聖書の律法により、自分が罪人であることを知らされた。どうもがいても、この罪の咎から逃れられないほどの罪人である自分を知ってしまった。 律法を知らなかったら、罪を知らないままでいられたのに。すると、律法は悪いものなのか?いいや、違う。律法を知って、自分がどうしようもない罪人であることを知ったのだ。 それは、私自身は律法の前に死んだ、ということである。律法の下に私(罪)が死んだので、新しい私は律法から解放されたのである。
「この世の水」は甘い。しかし、それが腹に落ちると苦くなる。「ああ、呑まなきゃ良かったのに」と、後悔する。そのくせ、喉は直ぐに渇く。幾ら呑んでも渇く。 イエスの下さるいのちの水は、苦いと感じることが多い。しかし、それは腹に落ちると甘い。これほどの水は世にはない。実に神からの贈り物である。
聖書のローマ人への手紙は、新約聖書において珠玉の書簡である。語られている中身は誠に厳しく暗い。鎖のような重さを感じる。くどくどと執念深く、罪を語ってくる。それほど、人間の罪は重いと言うことであろう。それを重く感じないのは、自分が生まれ持って、その中で当たり前の様に生きてきたからであろう。
そんな自分がイエスの十字架によって、この罪を赦され、自由の身となった。 実に、頼みもしないのに、彼は死んでくれた。罪の重さを知る前に、彼は死んでくれた。 ここに喜びなど覚えない。本当にイエスに感謝できる場所は、自分が神さまの前においては、極悪人であることを悟った瞬間からである。こんな者がと、自分を指差したときこそ、神の愛と慈しみを知る。そして、律法の厳しさを身をもって知ったのだ。こんな者が神の子とされた・・・・ここに喜びだけでない不思議な感動が沸き起こる。ここで涙しない人などあろうか、とさえ思う。
ある本にこんな記事があった。実話である。 今でこそシングルマザーなどと、格好良く呼ぶが、少し前までは周囲の偏見と色眼鏡で見られた。 「私生児」という理由で、村人からは除け者にされたが少年がいたが、彼は教会には足が向いた。教会だけが彼が安心していられる場所だったのである。 ある日、新任の牧師が来た。礼拝後、彼も大人に混じって、牧師の見送りを受けた。 牧師は少年を見てこう言った。「君は誰の子かな?」 周囲の空気が瞬間変わった。 次に牧師は言った。「わかったぞ、君のお父さんが!お父さんそっくりだね!」 大人たちは硬直した。しかし牧師は続けた。「君は神さまの子供だよ。君を見ると直ぐにわかったよ。」 少年はその場から、逃げるように走ったが、その背中に牧師の声が届いた。 「いいかい!これからは天の父の子供として、生きるんだよ!」
それから数十年後、テネシー州知事の「ベン・フーボ氏」はこう述懐している。 「私のような者が、父なる神の子供だと聞いたあの日に、未来の州知事が誕生したのだ。」