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■ 母の日・人生の主語は神  / 創世記12:1~21 (2007-05-13)

聖書の登場人物、すべてが「神の人」であったわけではない。 多くが間違いを犯し、人間的な判断で生きていた。読むこちら側としては、安心もあり、共感を覚える。彼らは人間の弱さを暴露しつつも、神の助けと祝福の中に生かされた。結局、我々となんら変らないのかも知れない。ただ一つ、神の憐れみが彼らを取り巻いていたことを聖書は記している。

創世記の初めに二人の母が登場している。二人はこの世の環境の対極に置かれている。 一人は神に選ばれたアブラハムの妻のサラ。もう一人はサラに仕えるエジプトの女奴隷、ハガルである。アブラハムを取り巻くこの二人の女性は、同じ女性でありながら、主人と奴隷の立場であり、同時にアブラハムと床を共にした関係もあった。

サラには子供が生まれなかったが、ハガルはアブラハムの子を産んだ。それはサラの差し金であったが、サラの嫉妬と厳しい目はハガルにまとわり着いた。当時、奴隷は主人の持ち物でしかなかったから、生かすも殺すも主人次第、人権など微塵も与えられていない。

やがてサラはアブラハムに子供を生んだ。神の奇跡の御手が触れたのである。 子供が生まれた宴会の日、ハガルの子供が赤ん坊をからかった。そのことはサラの神経を逆撫でした。サラは女奴隷とその子を追い出した。

アブラハムにとって、子供は自分の子である。腸を掴み取られる思いであったが、彼は神の言葉を聞いた。 「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

実に厳しい場面である。 荒野に追いやることがどういうことか、アブラハムにおおよその想像はついた。 水がなくなって死ぬか、または猛獣の餌食になるか、または盗賊に暴行され奴隷として売られるか・・・だが、彼は神の言葉に賭けた。

案の定、ハガルと子供は水が底をつき、もう歩く気力も失せた。 そのとき、神が少年の声を聞かれた。 神がハガルの目を開かれ、水場を見つけた。 神が少年と共におられ、少年はイシュマエル部族の長として、立てられる神の約束を聞いた。

クリスチャンの人生、誰が主語であろうか? 私が生きて、私が信じて、私が礼拝・・・すべて私が主語である。 ここに神が主語となっていない。社会派の教会、福音派、カリスマ派、色々あるが、どの派で主を信じようと、問題は派ではなく、キリストが主語であるか否か、だと思う。

あなたの証し、あなたの人生を文字で表現するとしたら、創世記21章のような文章が続くだろうか? 神が少年の声を聞かれ・・・神がハガルの目を開かれ・・・神が少年と共におられ・・・・

「神が主語で書かれる人生」は素晴らしいと思う。他人がどう見るか?とか、キリスト者として恥じない人生を云々の問題ではない。 ただ一つ、神が自分と共に生きてくださる、ことを強く求める人生でありたい。

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