■ My Master / ローマ人への手紙6:5~18 (2007-04-29)
マスター(主人)・・・日本には特に大勢おられる?そう、実に大勢いるのだ。 喫茶店のマスター、スナックのマスター、バーのマスター、すし屋の??? 若い日、まだイエスさまを知らなかったころ、実にたくさんのマスターが私の頭の中にいたが、今はただお一人、のマスターのみである。
ローマ6章は特に手厳しい。人生で私は誰(つまりマスター、主人)に仕えているかにより、私はそのもののしもべ、であると語る。自分はクリスチャンだから、当然ながら主人はイエスであり、彼が主人、の筈である。ウン?本当にそうかな・・・ 頭ではそうなのだが、生きる現場で果たしてそうか、と自問自答してみると、これが案外違っている。つまり、考える理想の部分と、生きる現場の生の世界にアンバランスが生じている。すると、私のマスターはどなたか・・・
パウロ先生は仰る。 『あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。』 あなたが誠実に仕えるご主人が誰かであるかにより、あなたはその方のしもべなのである。 時間と精神とお金と労力を尽くして取り組むものが、趣味であったり、仕事であったり、嗜好品であったりする。または自身であったりもする。すると、私の主人はそのものであり、私はそのものの奴隷なのである。
つまり、時間も心を捧げ(支配され)、価値観を牛耳られているなら、私はそのものの奴隷であるというのだ。確かにそこに私の自由はない。自由の積りで選んでいても、虜にさえなっているのである。キリストの十字架により、私は自由の身となって、昔のような自分ではない筈。だが、知らぬ間に心は占領されてしまったのか。心が今、何を向いて生きているか、いつも主の聖なる光によって照らし出されていないと、いつ誘惑が迫っているかもわからない。
キリスト以上に時間や思い、財や労力を捧げて惜しみないものがあるとしたら、それは最早偶像でしかない。 日曜と言えば朝から教会であり、教会学校があり、礼拝がある。賛美歌を歌い、メッセージを聞く。確かに私のマスターはキリストである。 しかし、人の心は絶えず何かを求めている。「目に麗しく・・・・」誘惑はどこにでもあり、人の心に忍び寄り、そして忍び込む。 実に人は、自分で自分の心は守れない。イエス・キリストだけが守ることがお出来になる。
人の体、手も足も、目も口もすべて創造主からの賜物である。それらは、人に必要であり、祝福されたものである。それ自体に一切の罪はないし、道具でもない。 だが、私達の内なる思いが何を求め、何に興味を持つかによって、肢体も機能も誘惑を求め、体自体の満足を味わう凶器となる。人の体も、心も、実に弱く、コントロールされ易い。 だが、覚えよう。 『罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。』 ローマ6章14節