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■ 墓の石は既に転がしてあった / マルコの福音書16:1~14 (2007-04-08)

もし、イエスがよみがえられなかったとしたら、どうなった?

1、新約聖書は無かった!・・・イエスの復活があったればこその福音だからである。 2、キリストの教会が無い!・・・福音がなければ、福音を伝える場所も集まりもないからである。 3、人類の歴史が違っていた!・・・あなたは聖書がどれほど多くの影響を与えたかを考えたことがあるだ ろうか。政治家、指導者、英雄、そして音楽、絵画、作家、彫刻、思想、その他にも限りなく聖書は影響を与えてきた。 4、救いの道が無い!・・・イエスのよみがえりこそが、天国への道である。罪の赦しと解放が人生を救い、人を天国に導く。 5、クリスチャンのあなたも私も存在しない!・・・救われた人生にいない自分を想像していただきたい。想像しようにも想像出来ないのである。

十字架から降ろされたイエスの遺体は、真新しい墓に葬られた。婦人たちは呆然自失、ぼんやりとそれを見ていた。横に掘られた穴の蓋石は大きく、そこにはローマの提督ピラトの名が書かれた紙で封印され、兵士は寝ずの番をしていた。彼らは尽くせる限りをして、墓を守ったのである。 そして三日目の朝、婦人たちはイエスの遺体に塗る薬を持って、墓に向かった。道々、彼女達の心は暗く、考えられることは「誰か、あの墓の蓋石を動かしてくれるでしょうか」であった。

そして、彼女達が墓に着いて目を上げたとき、驚いた。墓の蓋をしてあった石は転がしてあった。 更に、中を覗いてみて驚いた。そこにイエスの遺体はなく、巻かれた布が落ちていた。まばゆい光が近づいて声があった。「彼はここにはいない。彼はよみがえられた!」

この朝以降、世界の歴史は変った。まさにひっくり返ったのである。 死者がよみがえった。こんなことがあろうか?常識が力を失い、死を恐れない信仰の世界が幕を上げた。イエスを信ずる信仰は、如何なる圧力さえ封じ込めなかった。世界に広がったイエスの福音をもっとも恐れたのは、反キリストの霊たちであった。この日本の歴史を見ても然りである。豊臣も徳川も、キリシタンへの弾圧により、瞬間的に封じ込めたかには見えたが、創造主の力の前には何もなし得なかった。世界人類の歴史下においても、同様である。キリストへの弾圧と共に人間を神とする国家はやがては滅び衰退し、その愚かさを舐めさせられた。

初めてのイースターは驚きと不可解、恐れと混乱に満ちていた。喜びなど程遠かったと思う。弟子たちは誰も信じられなかった。信じようともしなかった、と聖書にある。当然だと思う。

ここで信じることについて触れたい。クリスチャンである私達は、聖書の言葉「信じなさい」の命令をいただいている。「信ぜよ」である。信じられるから信じるのあれば、信仰は要らないと思う。聖書の信仰は、信じられずとも信ぜよ、である。そのようにして信じて行く時に、人は信仰の世界を自分のものとするのである。 私達は心に蓋石を持っている。心があけられない、開けない。みなこの石のせいだと思う。不思議なもので、心はあけようとして、開けないものだと思う。自身の思いとか力でなく、自然と開くのだ。何とも不思議であるが、そこが神の聖域だからであろうか。神が触れるとき、心は開く。蓋石を神が除けてくださるからだ。「だれか・・・」ではなく、神が取り除いてくださるのだ。

イースターを覚えよう。様々な心配事、問題、トラブル、絶望、絶体絶命・・・イースターの朝を思い出し、創造主が先に行って待っていてくださり、心配ごとを除けてくださる。それを信じよう!

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