■ 限界 / マタイ26章27~43 (2007-03-25)
総じて人はイエスに躓く、と思う。「躓くほどにイエスに信頼しているか?」とも聞きたい。 私など、仮にそう聞かれたら、思わずシドロモドロになりそうだ。イエスを信じない人は、既に躓いているのだろうか。そうとも言える。躓くくらい、強くイエスに賭けてみたい。 ほんのちょっぴりだけ賭けて、「ああ、躓いた」なんてしょげている輩には一言。イエス様のゲッセマネの祈りをもう一度読みなさい、と。彼は祈っている。「どうしても呑まずに済まされないのでしたら、神よ、あなたのみ旨をなさってください。」
キリスト者は転んだり倒れたりしながら、そしてイエスに起こされ、支えられ、大きくなって行く。熱心になってみたり、冷めたりしながら、信仰の道を歩んでいく。師と仰ぐ人も必要だし、アドバイスをしてくれる人も必要であろう。しかし、出来るなら、人間に依存すべきではない。「鼻で息をする者を頼るな」とイザヤ書にもある。ならば、出来るだけ多くの師を持とう。それは広く浅くを意味する。深く信頼する方は、ただお一人の主のみ! 人間に依存すべきではない、と言う意味は、当然のことながら自分自身も含む。自分にどれだけ依存しているか、と考えると、世のクリスチャンは確実に皆そうである。自分に依存する前に、主に依存すれば魂の解放がいただけるのに、これが出来ない。まさに「限界」がここにある。
人は限界の手前はるかに生きている。限界らいんではない。ずっと手前である。そこが居心地が良いからだ。自分が守られているように思う。実際は自分で自分を守っているのだが。だが、限界ラインに立ったとき、人は神の御手の最も近くにいるのだ。だが、ここで怖気ずいて後戻りするか、思い切って飛び越して主の懐にまで飛び込んで行くか、で信仰が計られてしまう。多くのクリスチャンは限界の手前、数歩で引き下がっている。そして、限界恐怖症に陥ってもいる。本当は神の祝福の数歩手前で止まっており、神の栄光に出会っていないのだ。求めつつも、超えられない祝福のライン、とでも言おうか。しかし、そここそが限界ラインなのに、である。
私も幾度そのラインを超えられなかったか。後悔しきりである。どうしても、人間的配慮が先行してしまうのである。福音を伝えるべき人や場所で、実際伝えられないのは、そのラインを超えないからである。そこは主に信頼しきること以外にない。人間的配慮も尊いが、こと福音宣教の場では決して優先させてはならない。だからこそ、イエスを伝えられない。救いが誰から来るのか、伝えられない。そして、その場面は二度と訪れないことが多い。悔やんでも悔やみきれない。
最近、ひと思ったことがある。 私は救われて天国の裁判傍聴席に座っている。見ると大勢の人が、神さまの前で裁かれ、次々と永遠の滅びの穴に落とされて行く。引き出された被告の一人が、やおら私を見ている。よく見たら、スーパーで長年、レジを打っているお母さんだった。 彼女が大声で何かを裁判長に訴えては、私の方を指差している。耳を澄まして聞いた。 「神さま、私はあそこにいる人をようく知っています。週に幾度も買い物に来ていましたから。でも、あの人は、私に何も教えてくれませんでしたよ。死んだらこんな裁判があるとか、永遠の滅びが待っているとか、イエスを信じなさいとか。一度も言ってくれませんでした。彼はどうなんですか。どうして、彼はあそこで見物できるのですか!」
イエスさまは限界をはるかに超えて、この世に降りてくださった。限界を超えて、33年間地上の生活をされた。人間の体をもって、疲れや痛みや病気も負ってくださった。そして、あの苦しみを背負ってくださった。主には主の、人には人の限界があるのだろう。だが、イエスがあの限界を超えてくださらなかったら、救いも赦しもないのだ。