■ こんな私・・にもかかわらず / ローマ人への手紙5:6~11 (2007-03-11)
日本語の「愛」と言う表現は、非常に貧しく淡白な範囲しか伝えられない。男女間の愛、親子、友人、師弟間などにも用いるが、日常的に会話の中では、先ず用いていない。それは、この国の風土、風習、生き方が、人間愛に対し、狭くて浅い部分しか捉えようとせず、感情、情緒と言った優しさや表現を、精神的なところに埋め込んでしまってきたからではないだろうか。英語のLOVEは欧米などでは男女間の域以外に、兄弟、同性の友人の関係で当然ながら幅広く用いられていて気持ちが良い。そういった感覚や感性が通じないというか、存在しないのが、日本である。それだけ、この部分では時代的に開かれたのが、極最近の戦後であったのだろうと思う。
ギリシャ語で愛を表現するには三種類の言葉がある。対象、関係、事情、によって言葉が違うから素晴らしいと思う。聖書が語る「愛」はアガペーと言う言葉が100%近くあって、この言葉は性、義理人情、人間関係などは一切含まない。アガペーは「至上の愛」である。 そして、人間世界には存在し得なかった愛である。このへん、日本人である我々は理解し難いものがある。それは「当たり前の世界」には無い。いわゆる人間関係の中では生まれようがない愛のかたちである。アガペー、あなたは持っているだろうか?私には微塵も無い。それがアガペーという愛であり、イエス・キリストさまは実にアガペーそのものであった。自分にアガペーが無いから、彼を理解し難い。しかし、私の代わりに、私のために死んでくださったことが理解できれば、彼を理解できる。アガペーとはそんな愛なのだ。
自分、この私、そして「こんな私」と知った時に、イエスのアガペーが迫った。こんな私を知ったとき、神の愛が理解できた。自分が単なる「自分である」ときは、実際間違っていても「自分」は正しかった。間違っていても、自分は謝らない。責任は取っても謝らない。これが私の29年前であった。「こんな自分」などと考えたこともなかった。俺は俺、俺が俺、の世界に、イエスが立ち止まって、宿泊までされ、食事まで一緒にしてくださった日に、俺は「こんな私」に出会った。イエスのアガペーが私に触れて、氷が解けた。岩が砕けた。 「あなたのそのままで、わたしはあなたを愛する」と主が仰った。その時、神のアガペーが生まれて初めて理解できた。
第一ヨハネの手紙が言う。 「アガペーの無い者に、神はわからない。なぜなら神はアガペーだから。」実にそのとおりだ。 第一コリント13章は言う。 「そういうわけでいつまでも残るのは、信仰と希望とアガペーです。その中で最も優れているのは、アガペーです。」 信仰じゃない!とパウロが言った。私達は信仰こそ究極!と思ったのに。これは驚きである。しかし、イエスさまを知っていくとき、確かに信仰以上の「アガペーそのもの」だった。 なのに、なぜか私達はアガペーよりも、「信仰の人」を目指していないだろうか? それはきっと、アガペーよりも、信仰のほうが楽だから?または、信仰厚い人のほうが、聖書的に思えるからか?・・・・ああ、アガペーは難しい・・・自分がそこでしか赦されないのに。。。砕けた岩が砂にならねばならない様な思いだ。