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■ こんな世界があったんか! / ローマ人への手紙4:25~5:5 (2007-03-04)

デイリー・ブレッドと言う黙想用の小冊子がある。毎日のメディテーションに助けとなる聖書のみことばも書いてある。聖書を読む前に、これらの案内書の言葉は、メインディッシュの前の出される前菜的な役目を果たしてくれる。座りました、はい、いきなりのステーキでなく、サラダやスープをいただくと、空腹感も催し、メインの魚や肉も更に美味しく食べられる。あれは胃袋のためにも良いのだろう。心が解きほぐされるために、様々な証しや励ましの言葉を読んでから聖書の言葉をいただくと、より心(胃袋)に入り易いと感じた。

デイリー・ブレッドの中に、若い娘さんを失った著者の証しが度々掲載されてきた。ティーン・エイジの愛する娘を失った父の思いが、切々と痛いほどに伝わって来る。想像できない苦しみと慟哭に置かれていると想像せざるを得ない。

子供達が成長するに連れ、どこの両親もことあるごとに祈る。誘惑、事故から子供達が神さまに守られるようにと、毎日祈る。D・B氏というお父さんは祈った。メリッさが年頃になり、活発な日々を過ごすようになると、特に父親は心配する。

しかし、そんなある日、メリッさは突然の交通事故により天に召された。父も母も胸張り裂けんばかりの悲しみを神に幾度伝えたことであろう。神は何故、彼女を取り去られたのだろう。神は彼女の死によって、どれほどの人が悲しむことをご存知無かったのですか?どうしてですか?主よ、 どうしてあの子だったのですか?主よ・・・

そしてD・B氏は言っている。「私達は嘆きながらも神に祈る。これからも祈り続ける」と。それは、キリストを愛しているからだ。キリストを信じているからだ。納得できない現実に置かれても、キリストの前においてのみ、納得できる未来があるからだと思う。 「今知らず、やがて後知るべし」(あなた方は今はわからずとも、いつかやがてこのわけを知る時がやってくるであろう)と言う主イエスのみ言葉は、私たちにとって大いなる励ましである。

キリストを信じる世界を知ってつくづく思う。「こんな世界があったんか!」 愛されている自分、赦される必要があった自分を知った。それだけではない。 1プラス1=2で生きて来た常識の世では、考えも及ばない世界がここにある。何故なら、ここには主がおられるからだ。よみがえりのイエスがおられる世界、イエスを信じる世界、そうか、こんな世界があったんか!と心底思った。「ああ、早く知っていれば良かったのに」と人々は後悔する。「そうすれば、あんな間違いはしなかったのに」「あんな馬鹿なことはしないで済んだのに」と。

ローマ書5章には、艱難はやがて希望につながる、とある。「うっそー!」と言いたい。しかし、この図式と言うか経緯は間違ってはいない。なぜなら、そこに主が臨在し給うからである。神がそうしてくださるのだ。自動的に事が進むのではない。主が共にいてくださり、希望への道を敷いて下さるからだ。艱難は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、練られた品性は希望を生み出すと知っていると、ローマ書は言う。そして、この希望は失望しない永遠への希望となるのだと。 実に、神のなさることは、時にかなってすべて美しい。

「こんな世界があったんか!」そう、ここにある。イエスがおられる世界。それはどこにある?それは・・・時間の世界の裏側であり、時間の世界に同居している。 主は言われる、「耳のある者は聞きなさい」「まことに、まことに、あなたがたに言っておく」と。 「実に、神の国はあなたがたの真ん中にある。」アーメン!

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