■ わからずとも神は愛 / ローマ人への手紙3:19~27 (2007-02-11)
人間に神はわからない。わからない筈であるし、わかろう筈もない。一番に困ることは、なまじわかった積りでい続けることであろう。わかった積りでいると、必ず何かで躓く。 実に神は理解する対象ではなく、生涯をかけて信じるお方である。これしかないし、これが最善と思う。実に不思議で、触れることも出来ず、つかみどころもないが、信じたらこれほど素晴らしい方は見つからない。心のすべてを注ぎだして話をしても、すべてじっくりと聞いてくださる。忍耐と寛容で、主の右に出るものなどいない。一つ、わかることがあるとすれば、神は愛である、ということだ。
ローマ書はくどくどと語り続ける。それは神において義とされることは、どんなことによってか?ということである。ローマ書は言う。人が義とされるのは、行いによらず、信仰による、と。 ヤコブの手紙と正反対の理論のように思える。ヤコブ書によると信仰は行いだ、と言う。行いのない信仰は死んだも同然だ、ともある。昔、宗教革命を行ったマルティン・ルターは、この部分で、ヤコブ書を痛烈に非難したそうだ。しかし、信仰があるのなら、必ず行いが伴う、というヤコブ書には同意できる。当然、と思う。信仰とは、頭だけのものではなく、生活そのものだからである。
救いは信じることによって始まり、信じる信仰はやがて言動となる。つまり、言葉だけに止まらないのである。自ずと、神の方向へ生きざるを得ないからである。そうでないと、自分の中が不安と葛藤でいっぱいになる。生きるとは、考えと行動の一致が生き甲斐のある人生であるからだ。
リビング・バイブルは信じると言う言葉を、「信じきる」と訳している。これはいい!と思った。信じている、と信じきるでは雲泥の差があると言ってもいい。信じきる人がどれだけいるだろう?大体の人が、心のどこかで不安や不信の念があるのだと想像する。信じきる、ということは実に難しいと思う。心とは、そんなに簡単に自己制御できるものではない。だからこそ、イエスさまが求められた信仰の難しさが迫る。幼子のように、信じきれない自分を内に見て、自分の情けなさに出会う。そんな自分にさえも、「あなたはわたしにとって尊い存在だ」と語ってくださる、主の憐れみが心に沁みてくる。
義人と罪人は、一人のキリスト者の総体的な姿である。罪人の自分がイエスの十字架を信じて義人とされる。しかし、義人の私が十字架の前においては罪人の自分に出会う。この構図は何ともユニークだが、神さまは敢えてこれを求められたのでは、とさえ思う。 つまり、左に罪人と書き、右側に義人と書き、真ん中に十字架を書く。義人は十字架を通って左に行くと罪人があり、罪人は十字架を通って右に行くと、義人になる。これがキリスト者の人生であり、生きる場所と思う。そして、人間は生涯、十字架無くして、罪人の自分に出会わず、十字架無くして義人とされた自分に出会わない。