■ 石ころからでもアブラハムの子孫 / ローマ人への手紙2:12~15 (2007-01-21)
イエス・キリストを信じ、心にお迎えすることにより、人はその罪を赦され救われる。 救われた者は、神の国、天国へ招かれる。これが福音である。この福音は時を経て、やがて世界に広がった。そしてヨーロッパから宣教師が渡来し、彼らにとっては全く異文化の日本にも福音が広がった。ここに疑問が湧いた。それでは、キリスト教が渡来する以前は、誰一人天国に行けなかったのか?
ローマ人への手紙は、この部分を明快に説明している。 つまり、律法が与えられていなくても、人間の心には必ず良心がある。ある人は良心によって霊なる神を礼拝する。律法を与えられていても、それを守らなければ、律法によって裁かれ、また律法を与えられていない国の人でも、その人の内で良心が人を責め、また弁護する。人は元々、良心によって正しいことと悪いことを判別できる。神が良心に神のおきてを書かれたからであると。
だが、良心はすべて一貫して働けない、と思う。良心が働いても、人それぞれは異なる人間性にある。敏感に良心に従う人もあり、無頓着な人もいる。全体的に考えると、何とも頼りないのである。更に、人間は良心に従おうとする思いよりも、肉的な誘惑に弱い。心も体も直ぐに汚染されてしまい、良心は隅っこで小さくなっている。
イエスが地上に来られたことは、人類にとって何という大きな恵みであろうか。太陽や雨が人間の肉体への神からの祝福であるなら、イエスは霊的な祝福、助けである。
この世には、クリスチャンでないのに素晴らしい人がいる。 それとは逆に、クリスチャンなのに、残念な人もいる。この両者には大きな落差がある。 しかし、天国に行けるのは後者である。何故か?神の憐れみの故にである。それ以外に理由はない。
バプテスマのヨハネは、大勢の宗教家達がヨハネのところにやって来て、バプテスマを受けようとしたことに対し、「神は石ころからでも、アブラハムの子孫を御造りになる」と言って、その人たちの信仰の欺瞞を指摘した。民族性、血統、更には経歴に頼り、学歴に依存したりしている人々も同様であろう。ここに真理がある。神はクリスチャンを石ころのように造られない。ご自身の大きな痛みをもって、買い取られたキリスト者一人一人である。それを思うと、一日たりとも怠惰に過ごすことが出来ない。
「天にまします我らの父よ」と会衆揃って朗誦する礼拝、再考したい。冒頭の一節だけでも会衆は考えるべきであろう。「我らの父」と簡単に語り流してしまわないで、子として置かれている自分は一週間、どんな生き方や考え方を優先してきたのか?子に相応しい反省と悔い改めの決心を伴わない「礼拝における主の祈り」であるなら、牧師たる者に責任が問われても仕方あるまい、と思う。そうでなくば、石ころから造られたクリスチャンだったのか、とでも疑ってしまう。
昔、佐古純一郎と言う牧師はこう言われた。 「お寺に生まれた私が、キリスト教の牧師になれたのは、キリスト教が真宗より優れていたからではない。神が呼んでくださったからである。」 重い意味がある。先生は唯一の神、つまり絶対主に出会った。先生は生ぬるいお茶を美味しいです、などと言って呑まなかった。思わず茶碗を落としてしまいそうな熱いお茶を呑んだ。自分を呼ばれたのが神であったからだ。
昔、石鹸とロウソクしか作れない一人のクリスチャン青年は、ある日、村の長老から大いなる励ましを受けた。 長老は言った。「これからは君の得意で好きな仕事をするが良い。そしてイエス・キリストを同業者に向かえ、収入の十分の一は必ず捧げなさい。」 青年はやがて大成功をおさめ、その収益から大学を建て、素晴らしい多くの人材を輩出した。 青年の名は「ウィリアム・コルゲート」その人であった。
イエスと生きる。これが人生の福音である。 あなたの隣に今日、イエスがおられるだろうか? 手を伸ばせば、触れるほどの距離に彼がおられるだろうか? もし、おられないとしても、イエスに責任はない。 責任はあなたであり、私にある。 くれぐれも言う。「イエスは私の隣でなく、内におられますから・・」などと言わないほうが良い。 もし、内におられるなら、隣にもおられる。イエスは霊であり人である。