■ 私の様な者のために / ローマ人への手紙2:1~11 (2007-01-14)
『あなたの人生で、最大の出来事は何でしたか?』と聞かたら、あなたは何と答えるだろう? あの学校に入れたこと? この会社に入社したこと? 今の伴侶に出会えたこと? 子供が生まれたこと? 宝くじで1億円が当たったこと?(羨ましくもあり、決してそうでもない) 様々あるかも知れないが・・・・
私の人生、最大の出来事は、イエスに出会えたこと。 と、言うよりイエスが私に出会って下さったことである。 想像しただけでも面白いこと。それは、イエスが私に出会って下さらなかったら、「大体、こんな人生だったかな」と大体は想像がつく。反面、今ある状況を、クリスチャンでない私が想像しようとしても、絶対に想像できない!これは確かだ。クリスチャンである私達が霊なる創造主を完全に知ることが出来ない以上に、未信者の人には想像範囲をはるかに超えた不可知論的世界ではないだろうか。
聖書、特にローマ人への手紙は言葉が実に辛らつだ。しかし、辛らつでないと、真意が伝わらない場合もある。特に、人間の心の深み、よどみ、そして原罪を指摘しようとしたら、研ぎ澄まされた刃の切れ味のような鋭さがなければ、相手の腹に届かない。 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」へブル4:12
「他人を裁くあなたは何者か。裁くあなたが、その人と同じことを行っているではないか。」ローマ2:1 同じこととは、逐一言動も中身も同じだ、というふうに判断する必要はない。神の御眼から見れば、何れにしろ、遜色ないではないか、と考えるべきと思う。私たちは人の事をとやかく言える立場にない、のである。そんな暇があったら、自分と神の関係、神さまの前の己をよくよく考えよ、であろう。そこで出会うのは「私の様な者のために死んでくださったイエスさま」という実感であり、「・・・様な者・・」という形容がぴったりする自分である、と思う。
この数週間前、私の事務所に置いてある小さいサボテンの一つが花を咲かせた。鉛筆の頭くらいの大きさだが、ピンク色の可愛い花である。実は14年前の正月、下田の公園で買い求めたものであった。日当たりの良い窓辺に置いた。花が気に入って買ったが、次の年もその次も、蕾さえ持たなかった。水だけは与え続けた。とうとう14年目となりそうな矢先、突然蕾がたくさん出てきて、可愛い花が咲いた。 とうにあきらめていたので、驚いた。奇跡である。思わず、創造主の心境に触れた。咲かない草木にあきもせず、水をあげ続けた自分。しかし、私ははるかに遠く主に遠く及ばない。私はとうにあきらめていた。しかし、神はどうだろう。決してあきらめないお方。待って待って、更に待ち続け、命の水をくださる。 人生最大の出来事は、このお方に出会ったことでなくて、何だろう。
あなたはその方にどんな思いを持っておられるだろう。 また、今だ出会っておられないあなたであるとしたら、是非出会っていただきたい、と思う。 彼こそ、最高の友、師、助けぬし、そして魂の伴侶である。