■ わたしに賭けてみよ!(深い河を越えて) / ヨシュア3章、4章 (2006-11-26)
奇跡、そうとしか思えない。振り返って見れば、私たちの教会は総体的に追い詰められてた場面が多かったように思う。 当初、民家を借りて礼拝をしていたが、突然の立ち退きを迫られた。当時は既にバブルの大波が日本を覆っていた。どこを探しても高額な場所ばかり。立ち退き料を貰い、借り入れをし、献金を募ったが、残った借金は途方もないものだった。買った土地は駅には近いものの、何とも狭い。それでも訪問者も増え、五年後には手狭になった。
すると隣家が売りに出されたので、やむにやまれず買い求めた。折角減ってきた借金はまた増えた。更に8年後、隣地が売りに出され、これも求めた。欲しいから買ったというより、現状打破と将来を見据えるときに、どうしても必要不可欠だった。そして、いつも付きまとう事は、金策である。外部からの借り入れでは足りないので、どうしても教会員に頼らざるを得ない。更に負債に対する精神的圧迫。長期に渡って責任を負い続ける負担も大きい。そんな無理をしなくても、教会活動は維持できるのだから、身分相応に行けばいいのにとさえ思う。だが、それらを得てゆくことは主の御旨だと信じた。いつも目の前に大きくて深い川が横たわっていた。約束の地はいつも遠くに感じた。だが、主は大きく広い川も渡らせてくださった。その水をせき止めてくださった。
ヨシュアをリーダーにして、イスラエルは約束の地へ向かった。目の前には、豊かに水をたたえ流れるヨルダン川。大人でも流されてしまう水量と勢い。誰でも足が立ちすくんでしまう。契約の箱を担ぐ祭司達は静々と川岸に向かう。祭司の足が水面に触れようとした。しかし、川は変らず流れている。
イスラエルには神からのみことばが与えられていた。十戒の石の板が入った契約の箱を担ぐ祭司の足がヨルダンの流れに入るとき、ながれは上流でつっ立って水は堰を作り、数十万のイスラエル民族は渇いた川底を歩いて渡る、と。
そして、祭司の足が流れに踏み込んだとき、約束のとおり、水は死海への流れ込むのを止められ、堰となって立ち完全に堰き止められた。
主の約束が与えられた。しかし、現状は変らない。祈って信じて一歩踏み出した。しかし、依然として道は開かず、現状に変化なし。あなたはそこで立ち止まり、足を退いてしまうだろうか。来た道を退き返すだろうか。「やはり無理だった・・・神は私をお見捨てになったのだろうか・・」 だが、ここでもう一度考え直す。 足を踏み出したが、踏み入れていなかった。 イスラエルを見よ。 祭司の足が水に浸った時、流れは堰き止められた。
ここに信仰の賭けがある。主をどこまで信じたかの分かれ道がある。他人に笑われようと、馬鹿にされようと、主とみことばを信じて足をひたす。 神さまが働かれることに対し、人間は理解などする必要もない。どうやってか分からないが、主の介入を求めたならば、人は自分の方法を捨てるべきである。主が下さる結果を待てばよい。
「 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。 しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。」(イザヤ書60:2)
その先が見えずともよい。見えないから更に良い。 人は神に賭けるしかない。 神はそこでこそ栄光を現してくださる。
賭けとは無鉄砲な面がある。 やみくもな面もある。 だが、みことばを確信したなら、単なる賭けでもやみくもでもない。 今、あなたの上に主が臨在しておられるなら、信じて流れに足を浸すべきである。