■ 「My desire JAPAN」 私の日本に対する重荷 / ローマ人への手紙1:1~7 (2006-09-24)
今から20数年前、当時出席していた米人教会の牧師からメッセージを依頼された。喜んで引き受けたが、アメリカ人と日本人の混じる多くの会衆の前で語ることは喜びと緊張が入り混じった。牧師は私に聖書の箇所だけを聞いて来た。箇所だけ伝えて日曜の朝を待った。朝、礼拝の式次第を見て、感慨深いものを覚えた。メッセージ主題はかの牧師が言わば勝手に?書いたものだった。それは「My desire JAPAN」とあった。それ以来、この主題が気に入って忘れることは無かった。「私の日本への重荷」まさに、そのとおりであった。私の伝道の人生の道しるべともなった。 メッセージの内容が主題を決める場合と、主題がメッセージを決定する場合がある。彼は私がどのようなメッセージを語るか知らないで、主題をつけてくれた。初めてであり、最後であったが、メッセージ内容はまさに主題のとおりであったから、主の摂理を心に刻み込んだ。
1、私達は主によって選ばれた。 イエスはそう言っておられるが、あなたはそれを確信しているだろうか。心底、そう思っているだろうか。選民イスラエルは神に選ばれた。神の栄光を現すべき民族として、である。故に彼らは多くの辛酸を舐めさせられた。世界中に散らされ、迫害の歴史を歩まされた。多くのユダヤ人が言ったそうだ。「我々は神に選ばれるべきではなかった。」と。クリスチャンでもそう思う人がいるかも知れない。「こんな苦労をするなら、主よ、どうして私を選ばれたのですか?」と嘆きの祈りが聞こえて来そうだ。
パウロも選ばれた。異邦人伝道のために。信じがたい困難の中で、彼であろうとその働きの中では迷い、呻いた。だが、主から選ばれたということに関しては、彼の確信はぶれず、よろめかず、動かなかった。見事であった。まさに救いの根幹であるところこそ選びである。
2、あなたを選ばれた方がおられる。 エレミヤ書には、神はエレミヤが生まれる前から彼を選び聖別し、母の体の中で彼は組み立てられた、とある。私達もそうであろうか?そうだと思う。 だが、十字架による赦しはすべての人間のためである。だが、十字架を受け入れ、赦しを自分のものとする人間は少ない。すると、その人々は選びの対象ではなかったのか、と思ってしまうが、そうではない。福音の受け手としては皆、選ばれていると思う。だが、多くの人間が福音を拒んだ。選びを拒否した。福音を拒絶し神の愛の供給を無視した。 あなたを選んだ方はあなたの上司とか社長ではない。天と地を造られ、すべての命あるもの、息のあるもの、自然界を造られた神である。 この方にあって限界も不可能も、死もない。永遠であり、全能である。この方が私を選び、あなたを選ばれた。 私は弱くても小さくても、この方と生きればどんな大きな事でも挑戦できる。不可能を可能にし、マイナスもプラスになる。主をほめよ!すべての被造物よ、主をほめよ!
3、選びに必ず理由がある。 人間世界でも選びには理由が伴うが、神の選びの目的は特別なものである。それは選ばれた人が、主に対して従順な者となることである。そこに神との素晴らしい関係が生まれるからだ。神は信じたが、あとはすべて自分の思いのまま、と言った人間に、神との素晴らしい関係など生まれようもない。聖霊が私達の心と体を自由に吹き巡る器となることこそ、神が望んでおられることと思う。
榎本保朗先生の本にこんなことが載っていた。「ある牧師が言った。日蓮宗の様に日本人クリスチャンも唱えられる言葉がないのだろうか?そこでその牧師は思いついた。そうだ、これなら主イエスさまもお気に召すだろう・・・と言ったかどうか。 それは「インマヌエル・アーメン!」つまり「主我と共にあり、アーメン!」である。何回も唱えていると、自然と力が湧いてきて幸せになる。選ばれた者の幸せの真骨頂がここにある、とさえ思った。選ばれた者が幸せであるなら、選んだ方はもっと幸せではないだろうか。「ああ、あいつを選んだ甲斐があった」と。
My desire JAPAN!この使命を神から与えられ、遠い日本へやって来た元テロリスト牧師がおられる。日本と日本人を愛し、アイルランドに愛する家族を残し、日本で伝道している。若者達や、刑務所でも彼は赦しを語る。赦しに関して、この人以上のメッセージを語れる人は、そうはいないとさえ思う。赦しを語るために神が彼を選び、その目的のためにこの日本にやって来た。主の御目的が彼を通し、達成されるよう祈り願う。 2006年9月30日、調布の地に赦しの宣教が語られる。「私の日本への重荷」として。