■ アシュラム集会 / イザヤ書56章7節 (2006-09-17)
『わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。』
アシュラム・・・・神の前に一人座し、心を開いて聖書のみ言葉を聴く。読むのではない。聴くのである。この習慣を自分のものとし、日々聖書からの言葉を聴くことが出来たら、あなたの信仰生活は変る。変るだけではない。生きることにおいて別人になる。主の言葉を聴くことがどれほど人生に大きな助けとなり、祝福となるか。
だが、多くの人は聖書の言葉を研究対象としている。若しくは狭い視野と聴き方が偏っているので、やがては疲れるものとなる。「耳のある者は聞きなさい。」とイエスは幾度も言われた。その耳が必要である。肉の耳でなく、霊の耳が求められる。そういうすべては、すべて心の持ち方にかかってくる、と思う。どうか自分に必要な言葉を、とか言うように、的を絞って聴くのではなく、180度心を開放して耳を傾ける。どんなことを聖書の言葉を通して主は語られるのだろう?と期待して座る。
不思議な集会だと思う。初めての人も、何回も出席した人も、皆この集会の中で主のみ声を聞くからだ。そこに何か日常では得られないものがある。そこに参加して、主のみ言葉を聴きたい、という姿勢が既にあるからであろう。
私は1993年、沖縄アシュラムに参加できた。数ヶ月前に京浜アシュラムが開会されるということを耳にし、初めてのこともあり期待して申し込みをした。だが、直前になって仕事の事情で行けなくなった。支払った費用は返って来なかった。残念な思いが心に刻まれた。お金は勿論(笑)だが、仕事を優先したことが悔しかった。そこで決心した。次のアシュラムが最北端であろうと最南端であろうと、絶対行く!それは殆ど意地状態であった。そして情報を得たが、場所は沖縄だった。
1993年二月、非常に寒い日であった。羽田空港はみぞれ混じりの冷たい雨が降っていた。暗く重い雲が空を覆っている。搭乗した飛行機はやがて滑走し、その暗い雲に向かって突っ込んで行く。厚い雲の中をどんどん上昇する。 やがて雲を突き抜けた。すると、そこは別世界だった。輝く太陽、どこまでも広く高い青空。宇宙までも青空に思えた。私は思った。これを見ただけでも、来た甲斐があった。 まるで人生と神の永遠の世界が平行して置かれているそのものである。
人生には悩みも苦しみもつきものである。昨日は晴れていたのに、今日は突然の大嵐、これが人生である。 まさに明日は分からない。 だが、神の世界は時間の世界に平行しているか、取り巻いているかのようだ。 絶えずそこにある。私たちの周囲にある。人間には見えないだけであって、いつもそこにある。見えもしない、感じられないけど、手を伸ばせば触れる距離ににある。それが神の世界である。それは見て納得するものではなく、信じるものである。信じればすべてが解決している。
そこからの三日間、主は聖書を通して語ってくださった。人生の岐路で主は語ってくださった。今も思い出す。あの日の暗く冷たい空と、その上の青空を。