1%を見られる神の眼差し / 第一列王記21:16~29 (2006-08-27)
アハブ王、これほど罪深い人間はいなかったろう、と思われる。しかし、ある日、彼が起こした行動を見られた神は、しみじみと預言者エリヤに語られた。「ほら、見たか。エリヤよ。アハブは悔いてしおれているではないか。だから、彼の時代に与えようとした災いを、わたしは思いなおし、彼の子孫の時代まで先送りする。」
この場面、思わず目を疑った。そもそも、イスラエルに雨無き3年を与えれた理由は、アハブとその妻が犯した神への背きによるものであったからだ。そして、アハブの妻は主の預言者多数を殺戮した。イスラエルの民の目を神から離し、偶像礼拝に走らせたのも、アハブとその妻であった。そのアハブが、ひとたび命の限界を神から告げられた時、アハブは王衣を裂き、荒布をまとい、断食をして、しおれて歩いたのであった。だが、それくらいのことで主はアハブを赦されたのか。ならば、アハブの妻によって惨殺されたな善良な男ナボテの死をどうして見過ごされたのか。
主の憐れみと情け深さに目を疑う時もある。そして、私の思い通りにならない主をいぶかってしまう。 だが、だからこそ神なのである。人間の目線と解釈で理解できるお方であろう筈がない。 思えば、私の思い通りになって欲しい、と思いつつ、私は決して神の思い通りになろうとはしていない。きっと、自分が神の思い通りになれば、主がなされることは理解できるのであろう。神を自分の思い通りにしたい人間ほど、自分は神の思い通りにはなりたくないのだと思う。自分を顧みてつくづくそう思う。誠にたたえるべきは天の父である。
実に神は1%の善を見られる。99%の悪に染まっている私の1%でしかない善を見ていてくださるのだ。アハブを見られた主の慈愛の眼差しを考え、創造主の深い愛を見た。アハブの罪の重さを思い、自分の罪の軽さに安心している己であっても、神の御目には同様なのである。 だが、神は十字架のイエスに1%の善を認められなかった。イエスの全身を覆っていたものは、私の罪であり、全人類の罪であった。いや、もしかしたら神はイエスのうちに100%の善を見つつ、彼が殺されることを見過ごされたのか。殺される理由のないイエスが、神の愛の実現のために、殺されるべき罪人となられた。そして、バラバという罪人が釈放されたように、滅ぶべきこの身と魂は救われた。ここに神の愛がある。これ以上の愛は地上に存在しない。天からだけ与えられる愛である。1%の悪でさえ見透かされる神の目は、今イエスの血潮によって洗われた我が魂を、100%聖なる者として見てくださっている。
我が身を包む神の愛、極限を超えた赦しにより、今日生かされていることに感動し、自分でさえ思い通りにならない自分を見据え、不思議なる神の御目の前に生かされようと思う。 実に厳しい旧約時代でさえ、神の愛がたおやかに香っているのを見ると、逆に人間の罪深さだけが浮かび上がって来るのが不思議である。