■ 生かされて / 第一列王記18:1~15 (2006-07-09)
人は神にあって生かされている。だから生きている。 自分の力で命を延ばすことなど出来ない。自分の知恵で長生きなど出来ない。人間はあたかも自分の努力と知恵、鍛錬と節制によって長生きしたりしていると錯覚するが、決してそうではない。勿論それなりの影響を体に与えることは出来ても、命を保つことはできない。人の息を守り、そして引き上げる力と権威をもっておられる創造主がおられる。
長生きできる人が正しいのではない。早死にする人が間違ったのでもない。人が知らない世界がある。そこは永遠の世界。その国の王なる神がご自身の決められたところによって、人の一生を計られる。人はこのことを気に留めておくべきである。自分の息を取り上げられる方がいることを。畏れよ、この方を。人よ、あなたの幸せのために。
エリヤの時代、イスラエルは創造主から離れた。そのため、天の雨の扉は閉じられ、中東の川や湖から水が消えた。その時代、およそBC860年頃、王も国民も偶像礼拝を好んだ。イゼベルと言う王の妻は、創造主に仕える預言者たちを一掃すべく、片っ端から捕まえては殺した。そのような環境で王宮に仕えるオバデヤという人は、非常に神を畏れていた。彼は預言者たち100人を50人ずつ洞穴にかくまい、パンと水で養った。イゼベルとアハブはこのように目の仇にして、エリヤを国中に手配し、捜していたのである。雨が降らないのはエリヤのせいと思ったからである。
助かった預言者100人がいた。殺された預言者も多数いたであろう。その境の線がどう引かれたのか、人間にはわからない。境界線に理由など見つからない。神のみぞ知る。これが地上に生きるものの限界であるが、これを納得してわきまえるべきと思う。人が人でしかないことを、わきまえるのである。納得できないから神にたて突くのではなく、人間の限界に納得するのである。そこから人間らしく生きる鍵があるのではないか、と思う。
今日も生かされている。だから生きている。そして生きていることを、生きておられる主に感謝。