■ 父の日礼拝・エデンの東に生きる父達へ / 創世記5:1~24 (2006-06-18)
昔、「エデンの東」と言う映画が作られ、一世を風靡した。特に出演したジェームス・ディーンという男優さんは、そのカリスマ性と演技力で多くの人々から親しまれた。惜しくも若くして散ってしまったが、今もなお数多くのファンがいる。
父の日の今日、世のお父さんのご苦労を思う。特に日本では戦後のお父さんはいつの間にか威厳を脱ぎ捨て、馬車馬の如く働く道を選ばざるを得なかった。やがて気づいて振り返ったが、父の居場所は家庭の中に既に無く、赤提灯のカウンターくらいのものであった。そこもエデンの東、と言うべきであろうか。しかし、聖書の中のエデンの東のほうが、父の存在感がはるかにあるのだ。何故だろう?それは神の祝福があるからだ、と思う。日本の父は創造主を求めない。日本人口に比して1%以下のクリスチャンと言われるも、教会における男性のパーセンテージは更にずっと低い。
お父さん達、父の日が誕生した原因をもう一度考えて欲しい。父の日は母の日が出来たことに起因するが、「一人の父の人生と生き様」によって生まれたのである。彼の娘は教会に呼びかけ、そしてアメリカの国を動かしたが、そこには地味ではあるが、妻に先立たれ、再婚もせず、6人の子供を育て上げた見事な父がいたからだ。文字通り試練の人生であったが、彼ウィリアム・J・スマート氏はまさにエデンの東に生きた男性であった。
エデンの東、そこは人間の営みが営々として続くところであり、同時に神から離れた人間世界でもあった。神はアダムとその妻をエデンの園から追い出された。人間が神の言葉に背いたからである。神はエデンの園の東に燃えて回る火の剣を置かれ、人が再び園に入って来ないようにされた。思えば、エデンの東は神の祝福なき場所である。しかし、神の人間に対する慈しみの全てが失われたわけではなかった。人は汗して働き食を得なければならなかったが、神の恵みはエデンの東に存在していたのである。涙と苦しみがあるも、そこには同時に生きることの喜びと感謝があった。人間の一生、それ自体がエデンの東、とも考えられる。
アダムから始まり、創世記5章は次々と登場する人物の生と死を語る。その時代、人間は7百年、8百年生き、妻を娶り子供達を生み、そして天寿を全うし、やがて死んで行った。何百歳生きても、人は必ず死ぬ、それがメッセージなのだろうか。だが死は肉体的死だけでなく、霊的死をも意味した。故に8百年生きたとしても、空しさが漂う。それが人生なのだろうか?人の一生は「空の空」でしかないのだろうか?
登場人物の中に「エノク」と言う人がいる。彼はメトシェラという息子を得た。息子を得て後、彼は3百年「神と共に歩んだ」と聖書は語る。彼は他の人に比べれば、三分の一ほどの人生であった。365年間、エノクは生きたが、「彼は死んだ」と書いてない。エノクは神に取られたと聖書は言う。神がエノクを特別に欲し給うた、のである。ここに、人はどれだけ生きたか、に価値があるのではなく、どう生きたかに価値があるのだ、が聖書の言わんとするメッセージであろう。
通常、人間は幾つになろうと長生きしたい筈である。健康であり、財産もあれば、誰だっていつまでも生きたいと思う。エノクもそう考えていたのだろうか?否、エノクは神と共に歩んだ。これこそ、人間が生きるべき姿である。神が人間をお造りになった理由である。 人間だからエノクも失敗したであろう。己の弱さを身にしみて感じたことであろう。だが、彼は神と共に人生を歩んだ。喜びも悲しみも、神に分かち合った。失敗も弱さも神と分かち合った。これこそが、神と共に歩んだ、と書かれる所以である。自分の弱さと不甲斐なさに今日もしおれているクリスチャンがいたとしたら、創世記の5章を読んで欲しい。エノクは普通の人間であったと思う。神に服従したとか、皆からほめられたとか、立派であったとか、聖書は言っていない。「彼は神と共に歩んだ」と語っている。