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■ そこで生きよ / 第一列王記17:7~16 (2006-05-28)

ケリテ川の水が枯れたとき、神はエリヤに仰せられた。 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

エリヤは主が言われるところの「そこ」を目指した。 「そこ」がどんなところか?エリヤは知らなかった。一つだけ、「そこ」はやもめの家、とだけ、神は告げられた。 エリヤはその町に辿りついた。長旅のため、疲れていたであろう。どこを向いても、水などない。枯渇した川と池ばかりであった。町の門で一人の婦人に出会う。エリヤはその神が導かれた人かどうかを試すため、声を掛けた。「ほんの少しの水を私にくれませんか?」 彼女は水を取りに行こうとした。エリヤは更に言った。「「一口のパンをいただきたい・・」 婦人の顔が曇った。彼女は言った。 「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」 エリヤはここで始めて知った。ここが神の言われた家だったのだ。

シドン(今のシリヤ)のツァレファテくんだりまで来たのは何故だったのか? 「そこ」とはこのような場所だったのか? 母と子の極貧の家庭を通して、大の男をどうして養えるのか? 疑問は限りなく浮かんでくる。しかし、エリヤは確信した。ここが神の備えれた家であることを。

「そこ」は神が用意された場所である。 「そこ」は神が全面支配をもって守られる場所である。 「そこ」でこそ、神が全能者であることを体験できる場所である。 だが、通常私達は「そこ」を好まない。避けて通り、自分が良いと思う方へ行く。 だから・・・・私達は全能者の力を知ることが出来ない。

その家に残っていた食料は、かめの底にある一握りの粉と壷の底にある僅かな油だった。 一つ分のパンの量であったろうか。彼女はそれでパンを作り、最後の食事をとってから息子と心中しようとしたのだ。だが、エリヤは恐れず言った。「婦人よ、わかった。だが、先ず私のためにそれでパンを作りなさい。その後、息子とあなたのためにパンを焼きなさい。何故なら、イスラエルの神、主が仰せられる。主が地の上に雨を降らせるまでは、瓶の粉は尽きず、壷の油はなくならない。」 事実、エリヤの言葉のとおり、粉も油もなくならなかった。

主が導かれる場所であるなら、まさに粉も油もなくならない。多くはないが、今日の分は絶えず確保されているのだ。 エリヤとやもめの家庭はひたすら生かされた。普通なら「この瓶の粉、壷の油はいつまでものだろう?雨はいつなったら降るのだろう。」と考えてしまうだろうが、考えて見ても仕方のないことだった。神にゆだね、まかせて生きるしかなかった。明日の飯を考え心配しつつ、信仰に生きることはできないであろう。 祈りも必要だが、神に信頼しきることは何よりも大切なのだ。「今日の労苦は今日で足れり。明日は明日が心配する」とイエスは言われた。 人間にはどれほどの粉と油が必要なのだろう? 今年の分だけでは物足りず、来年の分、いいや、10年20年の分まで溜め込む。そこで安心した積りだろうが、人は決して安心できない。なぜなら、神の働きを認める生活ではないからだ。全能者は自分であって神ではないからだ。ここにおいて人間は生涯、完全な平安を得ることは出来ない。

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