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■ わたしは烏に命じてあなたを養う / 第一列王記17:1~9 (2006-05-21)

預言者エリヤは、時の悪王アハブに向かって神の裁きを告げた。それはここから二、三年の間、イスラエルに雨が降らない、というものであった。神はエリヤを人里から離れたケリテ川のほとりに身を隠し、カラスの運ぶ肉とパンで養われた。王の手が及ばない場所であった。川の水を飲みながら、エリヤは生きた。神を信じなければ生きられない環境であった。カラスを待ちつつも、川の水面が細い帯になりつつも、彼は神を信じて日を送った。

現代、エリヤが置かれたような環境は私達に縁はない。必要な物は直ぐに手に入る。時間を問わず、場所を問わず。便利なこと、この上ない。だから、神を信じなくても生きられる。信じても信じなくても同じようなものだろうか。しかし、恵まれた環境であろうと、便利な環境であろうと、人間は神を信じるように造られているのである。あなたの人生の残りはどのくらいだろうか?平均寿命、など考えないほうがよい。あれは、あくまで大病にもならず、事故にも遭わないで生きる年数から割り出しているからだ。あなたの最後はもしかしたら今夜かも知れない。または明日かも。そして数年後かも。人間は神に生かされている。自分で生きている、などと高ぶらないがよい。神はあなたの息の支配権を持っておられるからだ。

エリヤは待った。カラス、イスラエルでは汚れた鳥であった。しかし、神はその鳥を用いて預言者を養われた。何とも不可解である。しかし、人間的な思考レベルは捨てなければ神を信じることなど出来ない。自分のプライドと尊厳さえも時として捨てなければ、とても神に従うことなどできない。イエスは神の子でありながら、人間のためにご自身の栄光も座も捨てられた。エリヤの比較ではなかった。

枯れ谷、枯れた川、ケリテ川はやがてすっかり水がなくなった。途端にエリヤに神の言葉が降りた。 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」 たった一人で自然界の中に身を置き、カラスの飛んで来るのを待ちつつ、エリヤは神を見上げ続けた。と言っても見えたわけではない。心と腹で頭で、文字どうり、全身全霊を神に傾けて彼は生きた。 次に降りた神の命令は、異邦人の国へ行き、やもめによって養わせる、というものであった。実に神の言葉に従う、とはこういうことなのだろうか。

神はエリヤを訓練された。神の言葉によって、偶像礼拝の預言者と戦う勇気と信仰ある人間を育てようとされた。環境は誠に厳しく、淋しく、貧しかった。どこを向いてても、神を信じなければ生きられないという、劣悪なものであった。だが、そこでこそ権力者の刃を逃れられたのである。そして、神はエリヤの息を守られた。神はエリヤと1対1でむかい合われた。実に彼は幸せ者である。

今日、あなたが置かれた場所、人生はいかがだろう。病、トラブル、ストレス、何処も厳しい場所である。だが覚えよう。そこでこそ、あなたは神に向かい合える場所である。そして、神はあなたを待っておられる。

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