お母さん、涙の向こうに神の祝福が見えますか / ルツ記1:1~2:3 (2006-05-14)
そこに人が存在するとき、必ず母がいる。 人は誰でも、母の体質、遺伝子、性質を幾らかであろうと、必ず受け継いでいる。 母は偉大である。母は強く、優しく、逞しい。子供を守るその本能に父親は勝てない。子供を思いやる心に父親は勝てない。自らのお腹に身籠った命を育て生み出した力と、母親と言う宿命は母を鍛えた。
旧約聖書にナオミという女性が登場する。彼女は悲運の女(ひと)であった。他国にて、夫を失い、成人した息子二人を失う。残されたのは、自分と息子の嫁二人だけであった。 ナオミと言う名の意味は「快い」だそうである。その名は奇しくも皮肉な名となった。 ナオミは、まだ若い嫁二人に向かい言った。「あなたがたはまだ若いのだから、新たな人生を見つけなさい。私は故郷に帰るから」。二人の女は泣いてナオミにすがった。一人はあきらめて離れるも、もう一人の女「ルツ」はナオミと共にベツレヘムに行き、生を共にすると決心した。
故郷に帰ったナオミを出迎えた人々にナオミは言った。「全能者が私をひどい苦しみに会わせました。あんなに満ち足りて出て行ったのに、主は私を素手で帰されたのです。もう、私をナオミと呼ばないで、マラ(苦しみ)と呼んでください。」
この場面に神の祝福など想像しようもない。神はナオミの人生から、すべての希望を取り去ったのだから。と、人間は見る。人には神の摂理など見ようもない。今、目の前の事実だけで判断するのだから。だが、神、主は見る対象ではない。信じる対象である。今が如何様であれ、信じてゆく。これが信仰である。摂理とは主のご計画であるから、これも又、信じるしかない。ここに置かれた時こそ、信仰の厳しさ、信じることの難しさをしみじみ思わされる。だが、ここで信じることこそ、やがて神の栄光を目の当たりにすることになる。
大麦の刈り入れの時期、ナオミとルツはベツレヘムに着いた。彼女達にとって、故郷の人達すべてが幸せそうに見えたであろう。飢饉から逃れて出かけて行ったモアブ、なのに、そこで全てを失った。今、帰った故郷の地は潤っているのだから。 ルツはナオミの言葉を傍らで聞いた。彼女は思ったであろう、と私は想像する。 「お義母さん、私は若くして夫を失ったのです。子供もいない。確かにあなたはすべてを失ったけど、私という娘を得たのですよ・・・・」
ルツは刈り入れた後の畑に残された「落穂ひろい」によって食を得ようと出かける。なんと悲しいことであろう。雀の様な生き様であった。だが、そこで待っていたのは、神の摂理の前奏曲(プレリュード)であった。人が想像し得ない、神の御手は彼女を未来の花婿の畑へと導いた。思わず、聖書の記者は記した。「そこは計らずも・・・」 確かに計らずも、である。だが、神は計画されていた。
今は試練の真っ最中、今は神など目に入りようもないとき。だが、希望の灯りは神の御手にあるものだ。この世が絶望であろうと、全能者に絶望はない! 涙の中に神が見えずとも、その向こうには神が祝福を持って待っていてくださるのだ。 キリストが人間に与えられた信仰とは、涙の向こうに神の恵みと祝福を見る力、心の決心である。
ナオミのひ孫にイスラエルの永遠の英雄が登場して来る。ダビデ、この名ほど世界の人々に夢を与えたものはない。ナオミは彼の登場を知りようもなかった。だが、神の摂理はとんでもない世界を用意された。異邦人の女、ルツを通してナオミは世界に二つと無い宝を永遠の果てに得ていた。母、とは何と恵み多き人々であろうか。神は確かに母を祝された。