■ 熱心・二態(にたい) / マルコの福音書14:27~36 (2006-03-19)
熱心、大いに結構である。一生懸命、一心不乱、すべて素晴らしい。私など何に向かい合ったらそうなれるのか、知りたいくらいである。だが、私自身の過去を振り返って見ても、そういう時が必ずしも無かったわけでもない。あったにはあった。
熱心、尊いと思う。しかし、このことには誘惑も伴う。「何のために・・」「どこに向かって・・」かが問われると思う。カルト宗教の熱心は、とんでもない事件を起こした。クリスチャンにとって特に覚えたいことがある。何のためなのか、どこに向かう自分なのか、である。
教会2千年の歴史の中で、沢山の過ちがあった。それは多くの場合、熱心が行き過ぎて狂気の沙汰になったことに起因する点が多かった。今の様に多くの教派、教団に分かれたのもある意味、熱心によってであると思う。見過ごせば何でもないことに拘り、結果として亀裂や分派分裂を起こした。
マルコの福音書14:27~36にペテロとイエスのことが対比的に書いてある。ペテロは自負と自信と意気込み、そして自分と言う存在と、他者と言う対象において、熱心であった。これからイエスの身に起こるであろうどんな出来事に対し、自分だけは決して躓かない、と豪語した。イエスが「いいや、あなたは三度わたしを知らない、と言う。」と語られると、益々むきになり、「死なねばならぬのなら、御一緒であろうと死んでみせます。」とも言った。ペテロの熱心には対象があった。それは、意地であり、他者には負けたくない、というライバル意識であった。己の弱さを認めず、人間という限界をもつものであることを忘れ、外見と心の鎧だけで自分を着飾った。
イエスはゲッセマネの園で、弟子達に心を吐露された。「わたしは悲しみで死んでしまいそうだ。ここを離れずに目を覚ましていなさい。」と、頼りない弟子達に頼んでおられる。もしかしたら、今の時点、私達に向かってでさえ、主はそう言われるのかと思うと、何とも勿体無いことである。いつも主を裏切ってしまう自分のような虫けらであろうと、イエスさまはやはりそう言われるのだろうな、と考えると、胸が熱くもなる。 そして主は眠りこける弟子達から少しだけ離れて祈られた。 「父よ、願わくはこの杯を取り除け給え。しかし、それがあなたの御心ならば、それをなさってください。」
イエスの熱心は天の父にご自分を捧げきることだけであった。 クリスチャンが祈るべき祈りと、生きるべき場所はゲッセマネのイエスの祈りと行動にあると思う。そこに自分の思いと願いは持ちつつも、天の父だけがすべての権限を持っておられることを認めている。決してイエスが優先していない。いかなる状況に置かれようとも、天の父のみ手に自分を任せられている。子としての自分を見過ごしてもおられない。 叩けよ、求めよ、探せよ、と教えてくださった「人の子」の片鱗はどこへ行ったのだろう。 それは、決して忘れたのでもない。地に落としたわけでもない。 「何のためか」「どこに向かってか」を考えれば、直ぐに答えは出てくる。 この私のためであり、この罪人のためであり、この傲慢な者のためであった。彼はその死をもって代価を払われた。罪びとの身代わりになって死ぬ、という杯を飲み干された。