■ すべてが砕かれ崩れ去る / マルコの福音書13:1~2 (2006-03-12)
2千年前、エルサレムに神殿があった。46年を費やして建設されたというこの神殿、荘厳で重厚であった。朝日に夕日に、そして月の光に映しだされる姿は神の臨在を思わずにはいられなかったであろう。日本の古来に歌われたものに「何者のおわしますかは知らねども、その有難さに涙あふるる」ともあるが、人間の力と技術、金を惜しまず建てられたのは、ヘロデの神殿と呼ばれる建築物であった。だがヘロデ王自身は創造主への信仰など聖書からはこれっぽちも伺い知ることは出来ない。ローマ政府に媚、王の権力に固辞するその姿に辟易する民衆はさぞや多かったであろうが、時代の中ではどうすることも出来なかった。
この神殿からの帰り道、イエスの弟子が囁いた。 「先生、御覧ください。なんと素晴らしい石と建物ではありませんか!」 そして、イエスは答えられた。「この大きな建物でさえ、崩されずに残ることはない。」
マルコ13章はこの場面から始まる。そして、近い将来に起こるであろう出来事から、やがてクリスチャンへの大迫害、更にこの世の終わりの状況までが、さながら地獄絵巻をめくるようにイエスのことばによって語られた。誰もが信じたくないであろうが、聖書が語るならば、その時は必ずやってくる。核戦争であろうか、宗教にこじつけた戦争であろうか分からない。黙視録の世界はその時を待っている。もし、開始されたとしたら、世界中のキリスト者が祈ろうと、止まることなく神の審判と裁きはやってくると思う。既に終末の時間帯にかかっていることは聖書学者だけでなく、他方面の研究からでも疑いなく予知されている。
イエスは13章で幾度も言葉を繰り返された。 それは「気をつけていなさい」「目を覚ましていなさい」と、「わたしは前もって何もかも話しました」であり、「わたしはすべての人(人類すべて)に言っている」である。
そこで、聖書の本筋からは離れるが、私たちの内面に立つ「牙城または我城」のことである。この神殿こそは、神にあって破壊される必要がある。 己が神殿こそ、クリスチャンにとって生涯、神の敵であり、自分の成長を妨げる。それは自分では崩しようがない。神の力と愛によってのみ、果たせることである。イエスはそのために来られた。彼はそのために十字架にかかられた。ところが、厄介なことに人間の本質は崩された瞬間から、直ぐに再構築を始めるのである頼みもせず、意識もしないのに再建築にかかってしまう。だが、結局これがクリスチャンの信仰生活だとも思う。自分の弱さ、もどかしさ、罪に対する曖昧と妥協にも関わらず迫る神の愛に打ち砕かれつつ生きる。
なすべきは、キリストに真向かうこと以外にない、と思う。 私の28年のクリスチャン人生を振り返ってみて、二度だけ「大先輩の感想」を求めた時があった。もともと人間嫌い?の私であるから、友人などの意見やアドバイスは求めないし求める対象もない。 だが、その二回だけはどうしても、誰か信頼できる人間の言葉が欲しかった。しかし、どこからも答えは得られなかった。答えに納得するか否かの問題ではなく、まったく無回答であった。実に空しい思いであった。 だが、その後随分時間が経ってからであるが、それで良かったのだ、と納得した。 人から答が貰えない限りは、「神に向かう」ことしかなかった。そして、そこで私はいやと言うほど、ねじ伏せられた。つくづく神の御心が自分とは180度も違うことに気づかされた。そして、そのことに感謝した。旧約の族長、ヤコブの受けた傷の痛みと、神の祝福を思い知らされた。その時、私の神殿は見事に崩れ去ったが、しばらくしてちゃっかりと新しい神殿が出来上がっていた。(実に悔しい・・)