■ 天の声と人の思い / マルコの福音書11:27~12:12 (2006-01-15)
あなたは「天の声」を聞かれたことがあるだろうか? 多くのクリスチャンは聞いている。そして、私も聞いた。聞いた、と言っても耳に聞こえる音ではなく、無音で語られる言葉である。「な~んだ、それは自分の思いとか、考えじゃないのか?」と言われても仕方ないことと思う。その人が聞いたんだ、と言えば、聞いたのである。そうとしか言いようがない。その人と霊なる方との二者間だけのものだから。
イエスを落とし入れようと宗教家たちが企んだ。だが逆にイエスの質問を受けると、彼らは返答が出来なかった。一方で群集の反応を恐れ、片や自分達の生き方を問われる。どちらにも立てない。自信がなかった。それは真理に立っていないからである。イエスは如何なる質問にも明確に答えられた。真理に立っておられたからである。もし、私達も真理に立つことを始めたら、もっと人生に自信が持てるだろう。それは、何事も起こらないと言う意味ではない。真理に生きる人は、絶えず向かい風の中に生きているような思いであろう。だが、心配も不安もない。
人間は天の声を聞き逃す。そして心の耳をも閉ざす。なぜなら天の声は人間の思いに反するからだ。そのわけは、人間は生まれつき、霊的には死んでいる。だから、神の声は届かない。キリストを受け入れなければ、人間は霊的に死んで、そしてやがて体の死によって、すべて滅ぶ。無になるのではない。永遠に滅ぶのである。そういう世界があるのだ。もし、あなたが神の声に耳を開けるなら、そういう世界があることを知るだろう。
問題は、私達が何故か自分の思いに固執してしまい、離れられないことである。パウロはそのことを自分に見た。「私はしようと思う善(神の声に従う)が出来ないで、したくない悪(自分の思い)を行ってしまう・・」おそらく多くの人間がここで悩んでいる。そして、それが人間の習性とあきらめている。悩む前に、である。だが、パウロは大いに悩んだ。彼は言う。「誰がこの私を救って(赦して)くれるだろうか・・」「イエス・キリストに感謝する。彼以外に私を救ってくれる方はいない。」
一人の女性は職場の上司のことで悩んだ。祈りのグループにそのための祈りをリクエストした。すると、ある女性が言った。「私はそういう祈りはしません。あなたが上司を尊敬できるようになるよう祈ります。」冷たく聞こえたが、彼女はやってみようと思った。上司を受け入れられる自分に変えて欲しい、と神に祈った。すると、上司に変化が起こった。上司は彼女に自分の悩みを打明けるまでになったのだ。暫くして、上司は他の地域に転勤となった。職場の多くは喜んだ。だが、彼女は悲しかった。そんな自分にめぐり合うとは、よもや想像しなかった。
聖書の真理に聞き従うと、こういうことが起こってくる。天の声はどこからでも語りかけてくれるのである。