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■ 人間の道理が落ちた日 / マルコの福音書11:11~25 (2006-01-08)

この世は人間の道理が大手を振って歩いている。それを許すのは人間そのものである。 聖書はそんな人間世界にもたらされた「生きておられる神のことば」である。分厚い本であるが、読みきれない量ではない。だが、そこには膨大な神のみことば掲載してある。これ一冊で社会も教会も十分な量の規則のはずであるが、人間の側が受け入れないので、せいぜい聖書の思想がちょっぴり引用されているくらいである。

イエスが腹を空かしておられた日、道端に無花果(いちじく)の木があった。イエスは実を求められたが、実のなる季節ではなかった。イエスは木に向かって言われた。 「今後、いつまでも誰もお前の実を食べることがないように」イエスはその木を呪われた。そして、翌日早朝にその木は枯れていた、と聖書は言う。

私達から見れば、何とも納得がいかない。神が造られた自然界であるし、無花果の木にしても同様である。時期ではないから、実がなくとも無花果の責任ではない。などと、考えていると、結局私もイエスに躓いたこととなる。 それは、被造物である我が身を忘れて、創造主に文句を言っていることになる。人間の道理が捨てきれないのは、ここに原因がある。一言も二言も言いたいのは山々であるが、ここは三歩下がって創造主を認めるべきである。聖書が言いたいのは、人間の道理云々ではなく、創造主の思いである。

神が必要とされる時に、相応しい心と行動が出来なければ、私達も無花果と同じ運命を辿るぞ、がこの箇所が伝えたいものであろう。無花果の側で物事をとらえるか、はたまた創造主の立場をとるかで、世界が逆転する。無花果の側でしか神を考えない者は、生涯永遠に、神を神として生きられないだろう。そこには神との接点も生まれないだろう。自分の思い、道理を捨ててまでも、十字架で死なれたイエスの後を行くことなど出来るはずもない。

神がご自身の道理を捨ててくださったからこそ、一人子を十字架に掛けられた。これしかない方法を人間への思いゆえにとってくださった。仮に神の痛みを我が事のように思うことは出来なくとも、不条理はこの世に山とある。そんな場面で我々は大いに憤慨し、怒る。だが、十字架のイエスに関しては、さも当たり前のようにさえ、受け取っている。それがクリスチャンの道理なのだろうか。イエスに対し不審な思いを抱くのは実のなっていなかった無花果対し、無意識の内に己を映してしまっているからだろうか。

イエスはご自身、納得して十字架にかかられたのではない。あくまで、天の父に従順を貫かれたのである。人間を罪から解放するのはこれしかないから、自ら進んで十字架に上げられた。そして、実のならない一本の無花果のために執り成し、「ご主人、切るのをあと一年待ってやってください。私が根の周りを掘って肥料を与えて見ますから。」と願った園丁の話を善意を持って受け止めるなら、反対の場面も受け入れることも、神を神とすることではないだろうか。 「見てごらんなさい。神の慈しみと厳しさを」は絶えず共存する(ローマ人11:21)。 私達は敢えて厳しさから目を離すべきではないと思う。

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