■ クリスマス・その裏側 / ルカの福音書20:1~20
クリスマスが私達にもたらすものがある。 密やか 静けさ 無言 内面への指向 秘儀 約束 などであろうか。 イースターとはまったく異なるものであるが、共通性もある。それは後にも先にも一度限りのことであった、ということと、神が100%の先導と実行をしてくださったことである。 そこには人間の介在は寸分たりともない。神がなし給うものであった。
霊なる神の言葉が、人間のかたちとなって、この世に降りてこられた。これがクリスマスである。小さな赤ちゃん、まったく無力で無抵抗な赤子であった。赤子は若い両親の手にゆだねられた。マリヤとヨセフはどんな思いでこの赤ちゃんを見つめ、そして抱いたことだろう。自分の子ではないイエスを見守るヨセフは、聖霊によって語られた言葉をそのまま受け入れることに決心し、マリヤに触れることさえしなかった。マリヤは自分の胎の実が成長するにつけ、不安も広がったであろう。大方の両親が、生まれた赤子の指の本数を数えたり、顔がどちらに似ているかなどを比べたりするものだが、マリヤとヨセフはそういう思いは持たなかったと思う。自分達の子でありつつ、自分達の子ではない、という不思議なイエスの誕生の日であったが、生まれたイエスを見たとき、彼らがその子に対し強い信仰と神からの恵みを覚えたことだろう。
イエスの誕生と場所を探り当てたのは、東方の賢者であった。彼らは、はるばる旅をしてベツレヘムにやってきた。いわゆる異邦人であったが、神からの特別な思し召しを受け、神の子の誕生を目の当たりにした。彼らの胸中、これいかに、である。探検家が長年かかって探り当てた財宝の山を目の前にしたことなど比べようもない、遥かに偉大な未知との遭遇であった。思わず赤子の前に膝をついて、礼拝したであろうことが伺える。
ついでやってきたのは、羊飼いであった。彼らは人間社会においては、下層階級である。だが、彼らはイエスの誕生を知らされた、貴重な人達だった。だが、ユダヤ人の始祖とも言われるアブラハムも羊飼いであった。祝福と信仰の父アブラハムは、遠い昔に羊を飼いながら流浪の旅を余儀なくされた族長であった。アブラハムを除いて、ユダヤもイスラエルも歴史を語れない。神はそのようなことを意図されて、敢えて羊飼いを選ばれたのだろうか。
イエスの誕生を知らされ、一番恐れたのは時の権力者たちであった。王は早速ベツレヘムの男の子たち、二歳以下の子供の皆殺しを命じた。 誠にクリスマスは、私達をさまざまな思いに導く。元来、本当のクリスマスが人間に与えるものは、恐れ、不安、心配であったのだろうか。だからこそ救いを求める罪びとだけがクリスマスを心から歓迎する。サンタクロースがシンボルであったり、クリスマスが家族や友人の絆を確認し合うような文化にしたのは人間の側である。クリスマスの裏側にこそ、人間の都合が潜んでいると思う。