■ すると、そのようになった / マルコの福音書11:1~10
創世記の初めの一章。聖書が繰り返し語る言葉がある。「すると、そのようになった!」である。創造主が発せられる言葉が、海と陸を分け、自然界をつくり、人間をつくられる。語られる度に「すると、そのようになった。」と聖書は言う。十字架で我が子を死なせてまでも人間を愛し、慈しんでくださる神であるが、人間の心までは創造の力を持って、踏み込まれなかった。だから、「すると、そのようになった。」という世界はそこに中々実現してこない・・・のだろうか。
イエスのエルサレム入城の場面。イエスは馬ではなく、ロバを選ばれた。それもロバの子である。主の主、王の王は小さいロバを選ばれた。ここに謙遜で謙ったイエスを見る。
イエスは弟子に言われた。「通りに出るとロバの子がつないである。それをほどいて連れてきなさい。もし、誰かが『ロバの子をどうするのか?』と聞いたら『主がお入用なのです。』 と応えなさい。」弟子は言われたとおりに行くと、言われたとおりにロバの子がいた。言われたとおりに誰かが言った。「ロバの子をどうするのか?」弟子は言う。「主がお入用なのです。」そしてロバの子はイエスの前に引かれてきた。
私達が選択し、決心するとき、何を思って決心するだろう? 大体が自分の利益を優先すると思う。自分にとって損になることを選ぶ人などいるだろうか?だが、世界は広い。世の人間の数に比較すれば小数であるが、決して少なくない人が敢えて損を選んでいる。失うこと、提供すること、時間やお金、労力や精神的消耗を捧げてまでして、損を選び取っている。もし、神の手元に別なバイブルが書かれているとしたら、そこに記される文言がある。それは「すると、そのようになった。」である。
イエスは御自身を人間世界に使い果たしてくださった。時間と場所を選ばず、苦しむ人生を強いられた人たちを徹底的に憐れまれた。体も心も非常な疲れの中にあった。枕して安らぐ夜もなかった。それでも、彼は自分を捧げきった。人類のために。それこそ、彼が生きるべくして生きた道である。だから彼をして聖書が記録してあった旧約の約束を書き換えられたり、削除される必要はなかった。それは耐えず「すると、そのようになった。」と言う言葉で結ばれて行った。
神はあなたの心と人生を見ておられる。神はあなたに期待しておられる。そして神のノートに幾度も記される。「今度こそ、この人は自分の利益より、誰かの利益を選ぶ。だから、記そう。すると、そのようになった、と。」 そして、その人は迷ったあげく、やはり自分の利益を優先した。そして、神は期待して書いた記録を消された。書き直した言葉は「今度も、そのようにならなかった。」