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■ イエス共にエルサレムへ / マルコの福音書10:32~34

イエスと弟子の一行がエルサレムへ向かっているとき、イエスは集団の先頭に立って歩き始められた。弟子達は驚き、恐れを覚えたと聖書は記す。並々ならぬ雰囲気が彼らを包んだのであろう。イエスの決心は、しっかりと固まりつつあり、何人をも寄せ付けない厳しさが彼の全身からみなぎっていたのだろうか。イエスは弟子達のおののく顔を見て、これから身に迫るであろう事態を語られた。人々がイエスを捕らえ、死刑に定め、唾をかけ、鞭で打ち、そして殺すことを、詳細に伝えられた。更に三日目によみがえることも。 弟子達が理解できたことは、「先生は迫害され、場合によっては殺される・・」であったと思う。彼らであっても、「よみがえる」という表現と実現において、おそらく理解できないことだったと思う。2千年間、殆どの人間が理解していない。しかし、僅かな人たちが理解できた。本当に救われたクリスチャンたちである。

クリスチャンとは自分の歩み、人生にイエスが伴ってくれると信じている。そして、それを当たり前のように考える。しかし、そうではない、と思う。人間が神の歩調(つまり聖書の言葉と導き)に合せる筈ではないだろうか。そうでなければ、いつまでたっても人間は自分を中心として生きる。信仰生活とは、イエスが中心、キリストが中心の筈である。 そういう私もやはり自分中心である。私の思い、考え、生き方、判断、選択、とどれをとっても自分が先行している。そして、主を己の歩みに合せさせている。

イエスはエルサレムに向かわれた。彼はそこで十字架に掛けられ、殺され、そしてよみがえられた。私達もエルサレムに向かう人生である。あなたはそこで「自分の罪が彼を殺した事実」に出会い、「自分が神に赦された」イースターの朝に出会う。自分のおぞましい、如何し様もない罪に出会い認めた者だけが、イースターの朝の光と空っぽの墓に歓喜する。 だから、恐れずにエルサレムに彼と行く。

イエスと歩くエルサレムの旅(この人生)には限りなく恐れも伴う。勿論、クリスチャンでない人生も恐れがある。だが、異質なのだ。イエスと生きるが故の恐れと、自分中心の人生の恐れは意味が違う。イエスはサタンと神の狭間で苦しみ、神の側だけで生きることを選んだ。そのための彼の人生であった。クリスチャンは、あえて自分を神の側で生きる選択をした。神の愛と十字架に出会った者は、どこに置かれてもやはり神のもとへ帰って行く。狭間で生きる苦しみと、神の側に待つ勝利を勝ち取りながら生きることが、クリスチャン生活と思う。神は敢えて、そういうところで私達を訓練されていると考える。

ある方が言われた。実に的を得ていると思った。それはこうである。 私達はいつも思う。神との関係は絶えず良好であると。だが、これは錯覚か誤解しているときが少なくない。つまり、自分勝手に考えている証拠ではないかと。例えば、二者で生きるとき、二者は絶えずそれぞれの意見や思いがある筈だ。一方が好き勝手に生きていては、相手がは納得する筈もないであろう。当然である。信仰生活の穴は、相手(つまり神であり、キリスト様)の意見を無視しながら、関係のことを考えない私達の無知にある。それを考えもせず生きているとどうなるか?なって初めて気づくから恐いのだ。 次の文章を読みながら、神との関係が崩れることをもう一度考えたい。 『神との関係が崩れると、心が崩れ、生活が崩れ、奉仕が崩れ、全てが崩れ、一生が崩れる。』 殆どの人が錯覚している。「自分と神との関係は崩れていない!」と。

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