■ アシュラム / マタイ14:13
「イエスは自分だけで寂しいところに行かれた。」(マタイ14:13)
私達の教会は年に一度であるが、聖書の言葉を聴くためだけの集会を開く。静かな場所で個人個人が聖書の言葉に耳を傾ける。そのためだけの集会である。聴いた後、グループになって分かち合う。しかし、そこではその人の分かち合いを聞くだけであって、アドバイスも評価もしない。その人に対してイエス様が語られたのであるから、他者の入る余地は必要ないのである。静かに耳を傾けて、聖書を前にし、ゆっくりと聴いて行くと不思議なことが起こる。その理由は分からないが、きっと聖霊が働いておられるのだ。心が段々開かれ、聞こえない声によって聖書が語ってくる。先ず、自分の上に置かれた神の愛が迫る。自分の小さい存在とイエス様の大きな存在が対比する。神の慈しみが自分を覆い、罪深い存在に対し、憐れみと赦しがすべてを包む。つくづく思う。「ああ、イエス様に救われていて良かったなあ・・・」と。これがアシュラム(退修会)である。
今年の教会アシュラムも、ひたすらイエス様の愛と創造主のチャレンジをいただいた。何の誉れも手柄も自分には無い。ただ、イエス様の憐れみの前に生かされている。それをいやと言うほど知らされる。しかし、その故にこそ、平安がある。人間は傲慢になっている時や有頂天にある時は決して平安はない。神からの平安はそういうものである。だから、悲しみの中でもその平安は存在する。実に不思議である。主が共におられるなら、敗北者の自分であっても安らぎがある。時として、そのこと自体、可笑しくなってしまう。
アシュラムを通して、イエスさまの行動の理由が分かった。彼はいつも一人、寂しい場所で祈っておられた、と言う記事が聖書には多い。イエスは天の父と二人だけのときを、何よりも大切にされた。はたから見ると、寂しいお姿に見えるが、彼が一番幸せに思える時間であったのだろう。そして、創造主も同様であったのだろう、と思う。罪多き私でさえ、安らぐのであるから、神の一人子にとってこれ以上ない安らぎであったろう。そして、彼が十字架への道を見据えながら生きられたのは、やはり「父との時」ゆえであったと思う。 私達の信仰はいつも揺れる。風にそよぐ葦の如く。そしてぶれもする。昨夜の決心、今朝の決心は、一日たりと同じに継続していない。そして、この不甲斐ない者に置かれた神の憐れみと御愛を知るとき、十字架なくして生きられない自分に出会う。
アシュラムで出会ったイエス様は、毎日私の部屋でも待っていてくださる。日々、彼は私を呼んでくださる。同様に、イエス様は変わらない愛と赦しと慈しみをもって、あなたを待っておられる。 「誰でもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、彼はわたしと共に食事をし、わたしも彼と共に食事をする。」(黙視録3:20)