■ 神を畏れよ / マルコの福音書6:45~56 (2005-06-12)
- マルコの福音書6:45~56
- 2005年6月12日
- 読了時間: 4分
我々は神を畏れる。畏れるとは、かしこまって敬うという意味の「おそれ」である。それは「恐れ」ではない。しかし、これだけでいいのだろうか、と思う。現在の私たちは神への「恐れ」という概念が希薄過ぎると思った。旧約聖書の時代、人々は本当に神を恐れた。へブル人たちは「神」という名さえ、軽々しく口にしなかった。彼らは「神」と言わず、代名詞である「主」(アドナイ)と呼んだ。古くはエホバと言う言い方であったが、その呼び方は間違いであることが判明し、現在はアドナイと言う本来の呼び方である。それくらい、彼らは神を恐れたのである。
日本人は神々、つまり人間によって造られた偶像神を信奉する民である。人も山も、海も川も、石でも木でも神々に祭り上げた。それらは神聖や偉大さを感じさせるものでもあり、たたりを感じさせる対象であれば、すべて神となった。人間の心の闇、または果てしない空想の世界に思いをはせ、「こうあって欲しい」とか、「こうなって欲しい」など、更には「こうなってもらっては困る」などと言う願望が神々を造らせたのである。つまり、人の心が神々を造らせたとも言える。それを裏返せば、人間はやはり神を求め、神がいなければ不安な生きものであり、それ自体が人は神によって造られたことを証明する。まさに「人は神のかたちに似せて造られた」(創世記1:26)のである。
イエスは強いて、弟子達を小舟に乗せ、夕闇迫る湖に漕ぎ出させた。イエスの乗っていない小舟は、さぞや心細かったであろう。やがて風が吹き始めた。その風は向かい風となり、激しく小舟に吹き付けた。漕いでも漕いでも舟は進まない。かれこれ6時間近くもそうやっている内に、時間は未明の時刻となった。その時、水の上を誰かが歩いてこちらにやってきた。弟子達は仰天する。水の上を歩く者が、この世にいる筈がない。大の男たちはガタガタと震えたであろう。上下の歯は噛み合わなかったであろう。人影は更に近づき、そして言った。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」その言葉を聞いて、イエスと気づき彼らはまた驚いた。その驚きは非常なものであった、と聖書は言う。
私は思う。現在の私達の神への思いの1割くらいは、「恐れる心」があったほうがいいのではと。神は愛なり、確かにそうである。慈愛の主、恵みの主。如何なる罪さえ赦し、救い給う神。アーメン、そのとおりである。そう、私達にとって主は友である、とさえ言われた。だが、これでいいのだろうか、と思った。なぜなら、神は神であって、断じて私達と同等ではない。はるかに高い、永遠なる方、絶対なる方である。全知全能の主である。その神は一点の緋色の罪さえ許しはしない。人間の心に、雪の白さを求められる主。このお方にとって、十字架に掛かった我が息子は、もはや愛する対象ではなかった。神の裁きをもって、制裁すべきに等しい対象でしかなかった。神は彼の手足に釘が打ち込まれるのを認められた。一昼夜に及ぶ肉体への虐待を許された。そして父を呼び求めるイエスの声は届かず、人類すべての罪人の象徴と実体となり、神はイエスを黄泉に渡された。これが、神の絶対なる聖と義のに対する御性質であった。恐るべきはこの方である。そして恐るべきは、我が罪である。
榎本保朗師は言っておられる。「人間はともすれば神を敵に回すことは平気で、人間が敵になることを恐れる。それは神が敵になっても、今すぐ自分が痛い目に会わないからであろう。しかし、本当に恐ろしいのは、神が私の敵となる、ことである。」アーメン 主イエスも言われた。「命と魂を滅ぼすことができる神を恐れよ」(マタイ10:28)と。
「安けさは川のごとく」という賛美歌がある。 その4番、「よし天地(あめつち)崩れ去り、ラッパの音と共に、御子イエス現わるるとも、などて恐るべしや」 主は来られる。彼は雲の間から降りて来られるのか。または我らが肉体の死に際し、一人その死の扉へ吸い込まれようとする瞬間なのか。その時、頼るは何か。死からよみがえられた方であり、我らが信じれば、死んでも生かしてくださるキリスト・イエスこの方である。このお方がいかなる状況とお姿で目の前に現れようとも、決して恐れない! パトモス島に流された使徒ヨハネはイエスを見た時、こう表現した。 「その頭と髪の毛は羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は炉で精錬されて光輝く真鍮のようであり、その声は大水の音のようであった。口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった・・・」(黙示録1:14~16) このお方があなたを迎えに来られる。このお方だけが、あなたを天のみくにへ連れて行ってくださる。この方のために生きよう!生きることはキリスト!死してもキリストである。
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