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■ 「今」を問われる神 / マルコの福音書6:30~44 (2005-06-05)

私達の神は今を問われる。明日の信仰、来年の私達の信仰を神は問題にされない。「今」である。今、何をどう信じているのか、である。だが、私達は今よりも先延ばしを希望する。要するに今、決めたくない。今、結論を出したくない、のである。特に重要な課題はじっくりと考えてから・・・と思う。だが、神は今を問われる。あなたは「今」、主キリストをどこまで、どれくらい信じ、また彼に賭けられるか?神は「今」を問題視される。思い出してみてもわかる。息子の病気の癒しを願った父に、イエスはその父の「今」の信仰を問われた。父は「もしお出来になるなら」と言ったが、イエスはその答えに満足されなかった。また、カナン人の母は、彼女の「今」ある熱い信仰によって、娘が癒された。それだけではない。イエスが彼女に言われた言葉、「婦人よ、あなたの信仰は見上げたものだ」。数え上げればきりがないほど、キリストは私達の「今」を問われる。もう一つ、神は将来の信仰も問われないが、過去も問われない。もし過去の何らかの出来事に囚われ続けているとしたら、それは救い主への信仰ではない。今直ぐにでも、キリストに介入していただく必要がある。

数千人という群集がイエスを求めて集まっていた。時は既に夕刻。男性が5千人、他に婦人と子供を入れたら数え切れないくらいである。弟子達は群集を解散させることをイエスに提案した。妥当な意見である。そこでイエスは弟子に問うた。「あなたがたで彼らに食事をあげなさい。」弟子はびっくりした。「先生、これだけの人々に食事をあげるなんて!とんでもないです。破産しちゃいます!」イエスは再び問うた。「パンはどれくらいあるのか。」弟子は言われたとおり数えてみた。「五つです。それと魚が二匹です。」いっそ数えないほうが良かった、と弟子は思ったかも知れない。この群集にあっては無きに等しい量である。

今、自分には何もない。今、自分は何も持たない。何もなし得ない・・・だが、そこで神が働かれることを、あなたは信じるか?そのところで、神が御栄光を現されることをあなたは信じるか?「アーメン!そうです、主よ。あなたはそういうお方です!」と言って神をたたえるなら、神はあなたを必ず用いられる。信仰とはそういう世界である。神が働かれる場所には、高学歴も輝く経歴も無用である。クリスチャンや教会は、この世が価値とするものによってではなく、ひたすら神の憐れみによって存在する。

イエスは群集を座らせた。人々はこれから何が始まるか、興味津々であったろう。イエスはやおら僅かなパンを天にむかって差上げ、神の祝福を求め祈った。二匹の魚も同じようにした。そして、弟子達にそれを配るよう言われた。6千人とも思われる群集が配られるパンと魚をそれぞれ受け取り、食事を始めた。弟子達が配れば配るほど、その手にはパンと魚が満ち溢れた。何とも不思議な光景であった。・・そうなるだろう・・とか、十分足りる!と弟子達が信じたわけではない。イエスの信仰と、天の神の恵みによってのみ、そうなった。弟子はひたすら五つのパンと二匹の魚を配っただけであった。「これだけしか、ありません」という量が、神の全面支配に置かれると、計り知れない量となる。状況は違っても、からし種ほどの信仰が山をも動かす、という主のみ言葉が実感として迫る。

理解し難い世界がそこにあった。常識と科学と物理が消えてなくなった瞬間であった。そこは創造主なる神と、一人子の神がすべてを支配しておられた。食べ残したパンくずを集めたら12のかごにいっぱいであった、と聖書は臆面もなく語る。そう、神が働かれる世界はいつもそうなのだ。有限は人間が考えた範囲であるが、神は無限の方である。だから、私達は神を自分の限界で計ってはならない。この方が本気になって働きをされたら、私達など虫けらでしかない。神の有に比べたら、人間の有など無に等しい。その無に等しき者のために、神はご自身の一番大切な一人子を十字架に掛けた。この 虫けらが滅びないためである。 聖書は言う。「恐れるな、虫けらのヤコブ。イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。」(イザヤ書41:14)アーメン!神が全力を注いで愛し給う虫けらであることを感謝。そして、虫けらであり続けたいと思う。

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