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■ いのちが死を呑み込んだ日 / マルコの福音書16:1~14 (2005-03-27)

  • マルコの福音書16:1~14
  • 2005年3月26日
  • 読了時間: 4分

約二千年前のその朝、世界は変化を開始し始めた。人類の歴史の変革が始まったのである。この朝、道理も物理も生化学も文化の価値観も、変わらざるを得ないものとなったのである。それは、小さな国の狭い場所で起こった。人間が瞬時に変えられるきっかけとなる要因となる事件起こったのである。 それは、イースター!主イエスの復活、よみがえりである。

その二日前、十字架で無残に殺されて行った彼らの先生は、真新しい墓に葬られた。三年間の師弟の親しい関係も、目を疑うような奇跡のぬしも、罪人と同じ刑に処せられた。群集の嘲笑とあざけりと土埃の中で、彼らの師は誰を呪うでもなく、二言三言叫んで、息を引き取った。そばで見ていたローマ兵だけは、不思議なものを見たかのように呆然と立ち尽くして、イエスの死体を見つめていた。そして、安息日の夕が始まった。

幾人かの女たちはイエスの死体に塗る香油を持って、未明に家を出たが、墓に着いたときは、あたりは明るくなっていた。彼女達が心配した墓の石の扉は、心配をあざ笑うかのように、横に転がしてあった。恐る恐る中を覗いたがイエスの死体がない!彼女達は悲しんだ。そう、死体がないからである。死体がないことが世界中のクリスチャンの心を揺さぶることであることを、彼女達が知る由もなかった。そして墓の中に不思議な人物がいた。彼は言った。「あの方はここにはおられない!よみがえられた!」

人生には必ず絶望というときがある。日本語は素晴らしいと思う。絶望とは、望みが絶たれると書く。イエスの弟子達はみな絶望の中に置かれた。この朝の女たちも絶望の中に置かれた。同様に私達にも絶望がやってくる。しかし、クリスチャンに絶望がやってきても、絶望の虜にはならない。何故か?それはイエスがよみがえられたからである。ならない、のではなく、なれないのである。

私達はこの世にも希望があることを知っている。仕事、家庭、生きがい、そして楽しむためには、どんな労苦も惜しまない。それだけの価値がある、と思っている。だが、あなたは必ず死ぬ。100%死ぬ。但し、いつか分からない。分からないのが、せめてもの慰めであろう。死ぬ日を知らされた人の悲しみと絶望はいかばかりであろうか。死はすべてを取り去る。希望も生きがいも・・・

ソロモンという人は、一生の儚さを知った。この世の快楽のすべてを手中にした彼は永遠に楽しみたいと考えたが、やがて自分も必ず死に行く者であることを考えると、逆に宝と快楽を手にした者ゆえの哀れさは人一倍であった。そこで、彼は快楽によって、死に行く未来から目を離し、一心にこの世の快楽を追い続けた。しかし、死から逃れられない彼の一生も、まさに空の空でしかなく、むなしさを知らされるばかりであった。彼はつくづく人間の生を儚んだ。人は自分の死の日さえ知らない。知らないが故に人とは憐れであると彼は思った。彼は言う。「実に日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまたむなしい・・・」伝道の書2:22

ソロモンがもし、イエスのよみがえりを目の当たりにしたら、哀歌も箴言も伝道の書も記すことはなかったと思う。それどころか、キリストの福音を宣教する素晴らしい伝道者となった筈だ。パウロが仮に旧約の人であったら、彼はソロモンのような書を残したであろう。イエスの復活がなかったとしたら、聖書は世界に存在しない。キリストの教会も存在しない。神父も牧師もクリスチャンも、教会堂もない。そして彼らの存在価値も意味もない。そして、世界の文化も今とはまったく異なるものであったろう。音楽、絵画、彫刻、思想、政治、すべてが違ったものであったろう。だろう、ではなく、違ったものとなった筈だ。それはイエスがよみがえらなかったら、である。死者には勝利がないからだ。

あなたは希望をもっているか。希なる望みと書く希望を、である。どんな困難がやってきても失わない希望をもっているか。財産の消滅、家族の崩壊、人生の終わりが来ても失わない希望をもっているか。それは実に日本人の99%以上の人が持っていないと言われる望みである。それは、イエスを信じる信仰である。死さえも打ち破る希望とは「イエスを心に迎え、彼により頼む日々を生きる」キリスト者だけがもてるものである。「彼はここ(すべての人の終わりという象徴である死=墓)にはいない!彼はよみがえった」からである。

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