■ 全能者にまかせよ / マルコの福音書4:26~29 (2005-02-27)
人が地に種を蒔くと、寝起きしているうちに、やがて種は芽を出し、成長し収穫にいたる。神の国はそのように人の手を借りずとも存在し、やがて魂の収穫に至る。全能者は人間よりはるかに不思議な世界で働いておられるのである。
人は知らぬ間に人間的に成長もするし、また高慢にもなる。だから、我々は自分が何を見て生きているのかを認識する必要がある。人は価値を感じるものに心惹かれ、自ずと向かっているからである。良いものも悪いものも、それなりに人間にとっては魅力があるからだ。今、あなたにとって魅力あるものは何か?それはやがてあなたの心を魅了し、神となる可能性さえある。創造主に向かって生きる人間は、人生でも創造力を与えられる。聖書の神はそういうお方である。
人間は創造力があっても創造者ではない。人間は被造物でしかない。それを認めないところに問題が起こるのである。神に任せることを人間は本能的に嫌う。それは人間自体が創造主の位置を求めているからだ。エデンの園で、神のようになれると考え、実を食べてしまったアダムとエバの血は、今も人間の中に脈々と流れ続けている。人は神にゆだね、神にまかせることを修練する必要さえあるのだ。
この国の救い、つまりキリスト者が溢れるようにと、私達は祈り、そして奮闘している。「みこころの天になる如く、地にも為させたまえ」と教会は祈る。 しかし、祈る言葉のように私達の心も同調しているのだろうか。この祈りの意味をわかって祈っているのだろうか。本当に神の全面支配を望んでいるのだろうか。おざなりに会衆で祈るだけであるとしたら、とんでもないことである。 だから、マルティン・ルターは「教会はこの祈りを殉教者にした」と言ったのである。神にすべてをゆだねるとは、主の祈りを祈る故にそういう思いに導かれる、のではなく、先ずそういう所に立って祈ることである。
先日、新聞の投稿欄に一人の若い女性の投書が載った。彼女はインターネットで知った「自殺志願者」と会うべく、タクシーに乗る。一緒に死んでくれる仲間に出会うためにである。しかし、その運転手は彼女の行きたい場所を知らないため、あちこちで聞きながら目的地を捜す。運転手は自分の未熟な地理認識のため、平身低頭して彼女に謝りつつ車を走らせる。その実直な姿に彼女の心がゆれる。生まれた世を捨てよう、と決めた心が氷の溶けるが如く、一人の人間の誠実さと温かさに動かされた。やがて目的地に着いた彼女は運転手の遠慮する手をのけて、メーターの示すお金を払って車を降りた。彼女は後ろから聞こえた運転手の声に、大声をあげて泣きたかったと言う。「お客さん、すみませんでした!今度もっと地理を勉強しておきますからね!」。どこまでも前向きな運転手と、どこまでも否定的な自分。「死ぬな!」という神の声を聞いたようだったと彼女は思った。そして彼女はあれから1年後の今も、精神的病と闘いつつ、だが懸命に生きている。家族も娘の重荷を負って生きているが、「あのときの運転手さん、ありがとう」と彼女は結んだ。
神は私達の知らない場所でも働いておられる。神にまかせよう。神に託そう。神は最善を為したもう方である。主をたたえ、祈り、主の言葉に従おう。 そして、主に向かい霊と誠を尽くして今日を生きよう。 聖書は言う。「地は人手によらず実をならせる。」アーメン!なぜなら、生きておられる神が働いておられるからだ。 自分の心さえ、ままならない私達である。それなのにどうして、他人の心を変えられようか。神にまかせよう。あなたは今日、生かされているのだから。