■ 升の中の居心地は? / マルコの福音書4:21~25 (2005-02-20)
- マルコの福音書4:21~25
- 2005年2月20日
- 読了時間: 3分
イエスは言われた。「あかりを持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためか?燭台の上に置くためではないか。隠れているのは現されるためであり、覆い隠されているのは、明らかにされるためである」と。 これは今までわからなかった神の奥義が、今イエス・キリストの到来によって、明らかにされたことを意味している。
そして、ここで考えてみたいことは、イエスが世の明かりであり、クリスチャンは世界の光である、と聖書が語っていることである。光としてこの世に置かれた私達は、果たして実際にそのような存在となっているかというと、どうも穴があったら入りたくなるような者でもある。勿論、そうでない人もたくさんおられることも、事実である。今期、パ・リーグのフォークス球団に入団した外国人選手がそのパワーの秘密を聞かれた時、彼はごく自然にコメントした。「キリストさまが打たせてくれるんだよ」。いいなあ、と思った。場所がどこであろうと誰に聞かれようと、サラッと答えられる態度に彼の信仰の明りを見た思いがした。
私達クリスチャンは何を恐れているのだろう?この世を徘徊し牛耳っているサタンであろうか?反キリストの霊として人間の心に絶えず誘惑し続ける悪魔であろうか?だが、ここでしっかり見据えておかねばならない事実がある。それはキリストの十字架によってサタンは既に敗北し、実質的な力は持っていない、ということである。クリスチャンたちがゾンビのような存在でしかないサタンから、今も悪影響を受けていることに、すべてのクリスチャン達は憤慨すべきである。確かに血肉の体は清さよりも快楽を求めやすい。いつもイエスの助けを求め、彼の力と勝利を信じ続けなければ、誘惑に落ちてしまう我々である。
サタンは二つのことで、賢明にクリスチャンたちに働く。 第一に「クリスチャンとして素晴らしい働き人を潰すこと」である。いくら強い信仰の人であっても、人は必ず弱点がある。サタンはそれを熟知しているのだ。明りとして輝くクリスチャンに升をかぶせてしまうことがサタンの目的である。サタンは私達人間には恨みはない。彼の目的はただ一つ、神に打撃を与えることである。信仰者が燃え尽きたり、消耗してしまって光を失うことこそ、神さまにとって辛く悲しいことはないからである。 第二は「すべてのクリスチャンの目を、神以外のものへと奪うこと」である。あなたの目は何に興味や好奇心を求めているだろうか。私達にとって頼りになる存在はもしかしたらこの世の宝ではないだろうか?サタンはこの時点でもう働いているのだ。私達の心が揺れ動くことで彼はほくそ笑んでいる。 サタンは創造者ではない!彼は何かを利用することしか出来ないのだ。私達はしっかりと十字架の主、よみがえりの主、天と地を造られた創造主 を信じ仰いで行こう。信仰のともし火を決して消すことのないように。
最新記事
すべて表示クリスマスが私達にもたらすものがある。 密やか 静けさ 無言 内面への指向 秘儀 約束 などであろうか。 イースターとはまったく異なるものであるが、共通性もある。それは後にも先にも一度限りのことであった、ということと、神が100%の先導と実行をしてくださったことである。...
「神にとって不可能はありません」(ルカの福音書1:37)と言う聖書の言葉がある。 多くの人が聖書を読む。だが、どれほどの人が「神にとって不可能なし」とする立場、思いで読んでいるだろうか。自分の人生に大した悩みがなければ、多くの人はそこに立てるだろう。だが、解決されない悩み...
二千年前、ヨルダン川に異様な風体の男が一人現れた。髪はぼうぼうと伸び放題。ラクダの毛の衣をまとい、腰には帯を締めた様は、さしずめ野人そのものであった。食べ物がまた変っている。蝗(イナゴ)と野蜜であった。こんな男の言うことに誰が注意を払うだろうかと思うが、ところがどっこい驚く...