■ 夕方からで1デナリ? / マタイ20:1~15 (2005-02-06)
天国の主人(神)はどんな方なのでしょう?イエスは例えをもって話しておられます。
朝日が昇ったころ、広場に主人が行くと、そこに労務者がたむろしていました。 主人は一日1デナリ(当時の1日分の労賃)の約束で、ぶどう園に送り込みました。更に9時、12時、5時にも同じように労務者たちをぶどう園に連れて行き、仕事を与えました。朝早くから働いた人々は、一日中焼けるような太陽の下、おまけに熱い南風を受けながら働いたのでした。
さて、空に星が輝き出したころ、主人は「一番後から来た者達から」順番に労賃を手渡します。しかし、夕方5時から働いた人も1デナリ!でした。12時、9時、そして早朝の人も1デナリでした。これでは早朝からの人たちが文句を言うのは当然です。しかし、主人は彼らとの約束を破ったのではありません。確かにう約束は守られたのです。
このお話は私達に何を考えさせるでしょう。この主人は不公平でしょうか。それとも公平でしょうか?5時から働いた人たちは、なんと思ったのでしょう。 確かに不公平ですね?その働きの実が全く評価されていないからです。夕方から来た人たちは1デナリ、と言う約束は受けていませんでしたが、主人は彼らにも与えました。大いに不公平ですね?
まず第一に、私達が自分をどこにおくか、でしょう。面白いことに、人間は殆どが、「自分は朝日の上った頃から働いた」という先入観や誤解した認識を既に持っている、ということです。無意識の内にそう確信していたり、そうあるべきだ、という所に立ってしまっているからです。でも、自分を神さまの前に置いて考えると、不思議ですが自分こそが5時から人間と知るのです。イエスの清さ、正しさ、へりくだり、謙遜に比べるなら自分など神の前には価値の無い弱い存在と知らされるからです。
人間は二面性を持っていると思います。クリスチャンがそのことを最も感じていると思います。いつの間にか他者と比べては自分を高め、イエスの前には自分を低くする・・・本当に私達は罪びとです。
第二に、このお話の中心は、ぶどう園の主人の気前の良さです。 あの文句を言った人に向かって、主人は「友よ」との言葉で会話を始めています。そして、どんな人にも1デナリを下さる主人は神ご自身なのです。あなたにも、私にもです。神の愛を是非、体験してください。教会はあなたを待っています。