■ 苦しみの意味がわからない時 / ルツ記1:1~22 (2005-01-16)
キリストを信じる者たちにとって、最も苦しいことは「神のされることがわからない時」だと思います。あなたにそのような経験はありませんか?大なり小なり、そのような経験がおありだと思いますが・・・いかがでしょう? 今週は「フォーカス・オン・ザ・ファミリー」の代表である、ジェイムス・ドブソン博士の本から学ばせていただきます。
ナオミ(日本的な名前ですね)という婦人は夫と二人の息子たちと飢饉を逃れ、モアブ(現在のヨルダン地方)にやって来ました。しかし、しばらくの後、厳しい試練が彼女を襲います。先ず、夫が亡くなり、二人の息子も後を追うように死んでしまいました。二人の息子の嫁は異邦人です。途方に暮れたナオミは故郷のベツレヘムに帰るしかなくなりました。嫁達にそのことを告げますが、ルツだけはナオミについてユダヤ人の中で暮らすという、固い決心を変えません。ナオミは出て来た時とは大違いな状態でユダヤに帰りますが、本当に辛かったと思います。故郷の人達の視線が針のように感じられたに違いないのですが、ナオミは人々に言いました。「全能の神が私をひどい目に会わせなさいました。私はすべてを失ってしまったのです。」
また、ヨブという人は非常に強い信仰を持った人でした。そして、彼はナオミ以上に強烈な試練を見舞われた人でした。しかし、それにもめげず、彼は信仰を失わず神に真向かった人です。彼は、神を苦しみの中でもとらえていた人でした。ヨブようなの屈強な信仰のレンズを、私たちは持ち合わせていないのです。しかし!彼の強い信仰でも神を捉えきることはできませんでした。ヨブは神を見失いませんでしたが、神の許しておられる試練の意味を理解できなくなったのです。彼の人間性、義、純粋性、神を畏れる心、誰一人真似できないものだったのに、です。若しくは、それゆえに、だったからかも知れません。ヨブは息子たち、娘たち、多くの財産、そして自分の健康、すべてを一瞬の内に失ったのでした。彼に残ったのは、そのような状況でも神を否定しない、と言ってなじる妻でした。
ところで、私達は二つのことを明確化しておく必要があります。 それは「神さまご自身が分からなくなった」ことと、「神さまのしておられることが理解できない」ことを大別しておかねばならない、ということです。ナオミもヨブも決して「神を見失った」のではなく、後者なのです。非情なる試練は私達に対し、「神を見失わせる」ことも「神のみ心がわからない」ことも、もたらすのですが・・・・・アーメン!主をたたえましょう。
しかし、私たちは二つのことを覚えておくべきでしょう。 第一に「神は決して私を見捨てず、見放さない」ということです。主はしっかりとそのお約束を聖書において記されました。いかなる困難の連続が来ようとも、神はあなたを見捨てたのではない、のです。神は「銀を炉で練るようにではなく、試練で人を練り上げる」(イザヤ48:10)のです。あなたが神に嫌われたり、見捨てられたから苦しむのではないのです。このことを受け入れるのは、神を信じきる信仰のみ、とも言えます。 第二に「神は試練を与える理由を、いちいち私達に教える義務はない」と言うことです。私達は、試練が理由なくやってくることは理解していますが、同時に「神はそのわけを解き明かす義務がある」と錯覚しているのです。ヨブの苦しむ原因はここにあったのです。
私たちは試練に理由が見つからなくても、神をたたえます。ここに信仰が試されていることも事実です。いかなる試みの中でも、神を信じましょう。それだけが、私たちを、神の前に留め置く唯一の秘訣なのです。
ルツはやがて再婚し、赤ちゃんに恵まれました。その子を抱くナオミを見て、人々は「ナオミに男の子が生まれた」と言ったそうです。そのくらい、ナオミの顔が輝いていたのでしょう。しかし、やがてその子の孫がイスラエルの王となることを知っていた人は当時、誰もいません。ああ、もしナオミがそのことを知ることさえできたなら、モアブの地での苦しみの意味を納得できたのに、と強く思うのです。実に、神は私達を「永遠というテーマ」の中で生かしておられるのです。しかし、私たちの興味はどうしても今という時間であり、目の前の世界なのです。私達が神の永遠性に価値を見出せれば、今の困難は必ず乗り越えられるのですが・・・・アーメン!主をたたえましょう。