■ イエスの教会 / マルコの福音書2:13~17
- 新約聖書/マルコの福音書
- 2004年11月21日
- 読了時間: 2分
聖書は不思議です。どうしてイエスの容姿に対し、まったく書き記さなかったのでしょう。私達はとても知りたい、と思うときがありますが、一筆も記していないのは何故でしょう?イエスの弟子たちは、イエスの一声で彼について行ったと書いてあります。きっと、人間の言葉では表現出来ないお顔だったに違いありません。限りなき聖さと栄光の品性に満ちておられたのでしょう。と、するとやはり筆では記せませんね。
ある日、イエスは収税所を通りかかられ、仕事中のレビ(マタイ)に声を掛けられました。マタイは直ぐに立ち上がってイエスを自分の家に招き、宴会を催しました。多くの人が集まりましたが、その中の殆どがすこぶる評判の悪い人たちでした。聖書は言います。「こういう人たちが大勢いて、イエスに従っていたのである」と。果たして、現代の教会はいかがでしょう?眉をひそめてしまうような人が殆どいないような現状です。そういう人たちを寄せ付けないような場所になっていることも事実です。しかし、彼らの中心にイエスがおられたことは素晴らしいことだったと思います。イエスが中心におられることが第一です。
私達はよくこう言います、「私達の教会」と。確かにそうなのですが、でもそれは目的とはならないのです。「イエスの教会」である筈です。イエスの教会を目指しているのに、なぜか「私の教会」になってしまいます。果たしてそれでもイエスは会衆の真ん中におられるのかと、つい考えてしまうのです。個性ある「私達の教会」の確立ではなく、いつもイエスが中心にいる教会となりたいのですが、そうなれないのは人間の弱さでしょうか、強さでしょうか。
マタイの家に集まった人々を見たユダヤ教の熱心な宗教グループの人たちは、イエスの弟子達に呟きました。「なぜあなた方の先生はあんな人たちと食事をするのか?」現代のどこかの教会からも聞こえてきそうな声です。 イエスはそれを聞かれて言われます。「わたしは自分を正しいとする者たちのためにではなく、自分を罪びとと認める者たちのために来たのである。」
彼らパリサイ派は、神の前に自分達こそが正しい者、というところに立っていました。ですから、他者の欠点が目につきます。でも、自分は神の前に正しい者ではない、という自覚があるなら、生き方が変わってくるのです。イエスの教会に集うなら、そういう思いになるのではないでしょうか?
最新記事
すべて表示クリスマスの時期、多くの日本の家々でイルミネーションを飾る昨今となりました。ライティングされた寒い冬の夜は、不思議な思いに浸らされます。でも、どの家もイエスを歓迎する雰囲気はありません。サンタクロースと雪ダルマだけです。ここにも、救い主は歓迎されていないのです。なにか二千年...
マリヤ、その名は殆どの人が知っている名です。彼女は純粋な心と信仰の持ち主でした。人目には決して目立つ存在ではなかったのですが、神さまの目は彼女を捉えました。神の聖霊によって、彼女はメシアをみごもる母として、選ばれたのです。そのことの意味も、理由も、将来も不安と恐れでいっぱい...
先週の新聞に「振り込め詐欺」のことが掲載されておりました。とてつもない被害額に上っておりますが、日本でこの種の事件が膨張してしまうことに、日本人という国民性も起因している、とも思われました。被害に会われた方達は、家族のためならば「出来る限りのことをしてあげたい」と言う心情で...