■ 「このアンバランス」 / マルコの福音書1:40~45
一人の重い病気、ツァラアトを背負った男性が、イエスの前にやって来ました。この病に冒された人は、社会で生活することは許されず、更に自分の病名を大声で叫ばねばならなかったのです。まさに生き地獄の毎日でした。この日、彼はイエスの所在を知ると、この時をおいてチャンス無しと決心し、大胆にも近寄ってこう言いました。「お心ひとつで私は清くしていただけます!」彼の言葉にはイエスに対する全幅の信頼と信仰を見ることができます。イエスは深く憐れみ、手を伸ばして彼にさわって言われました。「わたしの心だ。きよくなれ!」。途端に彼の病は癒された、と聖書は語ります。
仮に私達が健康でも、心が病んでいる時は多々あります。抑圧された日本社会とストレスの充満する日々です。人間関係の難しさを覚えることもたくさんあります。他の人や家族関係の中でも赦されない、赦さない、又は自分さえも赦せないものです。心の病気とはこういう身近なところからも起こってくると思います。でも!今日の聖書にあるように、イエスにふれていただき、「わたしの心だ。清くなれ」と言われたら、どれほど慰められるのでしょう。今日は苦しくても、明日に希望があるようにさえ思えるのです。クリスチャンはこういう恵みの場所に置かれていることを、あなたは知っておりましたか?
イエスは男性に一言注意をしました。それは癒されたことを人々には喋らず、ただ祭司に見せ治癒したことを確認してもらい、神に感謝の供え物をする(礼拝)、ようにとのことでした。これは旧約聖書の律法が求めるものでしたし、人々に喋ってしまうと、病気の癒しだけがセンセーショナルに拡販し、イエスの教えと福音を邪魔することになるからです。しかし、男性は社会に戻れた嬉しさを隠せず、周りの人々にイエスがされたことを言いふらしたので、イエスは町から身を隠す羽目になったのです。
私達は男性を責めることは出来ないでしょう。しかし、私達が学ぶべき真理があるのです。 それは、私たちがたくさんのことを神に求め、そして助けられたことが数えきれないほど多くあります。ですから、心をこめて感謝の礼拝に行くべきです。しかし、私達は済んだこと、終わったこととして済ませてしまいます。礼拝とは、過ぎた週の中で数え切れない神の恵みと祝福に対し、そして十字架によってこの罪を赦された現実を、霊と誠をもって神の前に出ることです。すべての人間は、神の恵みなくして生きられるものではないのです。どうか、創造主なる神に出会ってください。教会に足を向けて見てください。そこからもう一つの別世界が開かれるのです。