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■ 「1週間はこの日のために、この日は一生のために」 / マルコの福音書1:35~39

聖書は語ります。「イエスは朝早く暗いうちに起きて、寂しい所へ行き、そこで祈っておられた。」 イエスは孤独主義だったのでしょうか?そうではありません。彼は天の父と二人だけになることを大事にされたのです。

求道者という言葉のイメージは、一人一心になって道を求める姿を連想しますが、クリスチャンこそ一人になって祈る時を大切にすべきです。二人、三人が心合わせて祈るところに、主がその真ん中におられる、ともありますが、一人、神の前に祈る姿はとても美しく、また厳しいものを感じます。私達はここで己が弱さと愚かさに出会い、失敗やミスを神に悟らされるのです。一番素直になれるのも、一人で祈るこの場所だと思います。イエス様の祈りと私達の祈りは全く異なるものであったのです。彼はご自分の罪を悔いる祈りをする必要も無かったのですし、誰かを赦せない悔恨に悩むこともなかったのです。どんな祈りをされたのか、知りたい思いもありますが、きっと人間の弱さのために執り成しておられる時間が多かったのでしょう。

現代のクリスチャンは極めて多忙です。牧師も多忙です。私のように二束の草鞋(古い!)を履いていると、一週間が雑用だらけのようにさえ思えます。でも、あなたの24時間で主と共にする時間をせめて15分は持つべきでしょう。24時間もいただいているのですから、その中のせめて15分を神様に捧げても宜しいでしょう。でも、問題は時間の多少ではなく、神様と二人だけの密な時間を確保することです。主はあなたが来るのを待っておられます。あなたが主を呼び出すのではなく、主があなたを呼んでおられるのです。昔、イスラエル人も神を疎かにしました。イザヤ書で神はいわれます。「なぜ、わたしが来ても誰もいないのか?呼んでも応えないのか?」 私達は自分の都合を優先します。礼拝のスタイルも、です。しかし、主が一番求めておられるのはあなたと二人だけになることです。静かな場所、テレビの雑音もない所で神はあなたを待っておられるのです。

今日という日に語られた神の言葉が、やがて訪れる災いの日にあなたを支えます。今日の神との交わりが次週の礼拝に大きな喜びをもたらします。礼拝に喜びが感じられない方がおりましたら、問題は礼拝にあるのではなく、あなたの一週間にあるのです。霊的交わりは毎日必要です。信仰生活とはここが中心なのです。主はあなたが来られるのを、あなたの部屋で待っておられます。

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