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■ 「両極に置かれて」 / マルコの福音書1:21~34

  • 新約聖書 /マルコの福音書
  • 2004年10月24日
  • 読了時間: 2分

最近、こんなユーモアを目にしました。 ある牧師がたいへん謙遜だったので、教会は彼に「謙遜大賞」を贈ることになり、早速彼はその賞を手にしました。しかし次の週、その賞は取り消されました。理由は牧師が賞を辞退しなかったからだそうです。私などはまったく縁がないものと自覚していますので、最もそれにふさわしいのでしょうか?と、思った瞬間に取り上げられるのです。

ある日、イエスが会堂に居られ話をされた時、人々はイエスの権威ある話の内容に大変驚きました。するとそこに一人の「汚れた霊に憑かれた男」がいて、イエスに向かって叫びます。「ナザレのイエス!あなたは私達を滅ぼしにきたのだろう。私はあなたが誰かを知っている。神の聖者だ!」すると、イエスは彼を叱って「黙れ!この人から出てゆけ!」と言われました。すると霊その人をひきつけさせて出て行ったのでした。人々はイエスの権威ある言葉と教えに感嘆しました。

会堂内には多くの人がいたと思います。身分、知識も様々だったでしょう。そして多くの人がイエスの権威ある教えに感動し、驚嘆したと思います。しかし、一人の男だけは違った目をもってイエスを見ております。それは「汚れた霊に取り付かれた男」だったのです。そして彼にだけイエスの真性が見抜けたのです。それはどうしてでしょう?汚れた霊とは私たちの内にも存在します。でも、私達が霊的な見極めとか意識を持てなければ、イエスを見抜ける目は持てません。イエスは確かに歴史上に存在したとか、預言者であったとか、のレベルでしょう。自分は神から離れて生きる自己中心な者である、という認識を持てるのは、本当に僅かな人々しかいません。同時にその人達は、自分は汚れた者だという認識を持っている筈です。自分を正しい者と考えたいのは人間の本能ですが、神の前に正しい人は全くいない、のです。逆説的ですが、自分は汚れている者、と意識し、認めるものこそが、神の赦しと哀れみの対象となるのです。何故なら、キリストの十字架の前に立たざるを得ないからです。そこでしか、自分が赦されようがないのを知っているからです。

罪に汚れた者として自分を一方に置く者が、同時に対極にある神の恵みと憐れみの場所にも置かれてゆくのです。この不思議こそが信仰生活であり、また恩寵の世界であると思います。 神をたたえます。

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