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■ 「信仰の生命線」 / ヨナ書3:10~4:11

ヨナ書ほど私たち人間の弱さ、自分中心主義を鋭く突いている書物はないかも知れません。仮にも彼は神に仕え礼拝していた人物でした。イスラエルという国民の中から神に仕えるべく、特別に選ばれた者でした。しかし、ニネベ宣教を通して浮かび上がってきたものは、ヨナだけでなく、私たちがいかに自己中心な生き物かと、言うことだったようです。 それに引き換え、神の憐れみと慈しみは世界のすべての民の上にあるのです。そうです、人々が何を信じ、どこに生きていようと、神の愛はすべての人の上に公平に置かれているのです。

ヨナの宣教はニネベの町の人々を悔い改めに導きました。ヨナにとって敵国が神に帰ることほど悔しいことはなかったのです。そのためにヨナ自身が神に用いられてしまったという皮肉もあったからです。ヨナは神がその後のニネベをどうされるのか、町の端にとどまりました。神は暑い風を備えました。ヨナはその暑さに耐え兼ね、神に死を願いました。すると神はヨナの側に一本の植物を備えました。一晩で成長した植物は葉を大きく広げ、ヨナに涼しさをもたらしました。彼は大喜びでした。そこで神は小さな一匹の虫を備えたところ、虫は植物をかじってしまい、あっという間にヨナの快適さを奪ってしまったのです。彼は再び怒って神に死を願いました。神はヨナに語られます。「あなたは一夜で生え、一夜で滅びたこの植物を惜しんでいるが、わたしは右も左もわきまえないこのニネベの12万の人々を惜しんでいる」

私たち人間は神から与えられた材料と、備えられたものをやりくりしているのに過ぎません。人間は無から有を呼び出せません。それができるのは神のみです。今生きているこの体も命も神からのものです。神がこの息を召し上げられる時、私たちはこの時間の世界に別れを告げねばなりません。頑張っていられること自体も、神の御手の中です。人間は創造主ではありません。被造物です。この世のすべてはそうなのです。そういうところで私たちは生きている、否!生かされているのです。神の大きさと偉大さ(もともと計りようもないのですが)を知れば知るほど、人間は自分の小さいこと、弱いことを知るのです。ヨナはすべて自分を中心に生きた人生でした。でも、私たちに彼を批判することはできないでしょう。なぜなら、彼の中に自分を見させられるからです。しかし、ここが大切なのです。自分を見過ごす私たちこそ、要注意であるからです。イエスは十字架で叫ばれました。 「父よ、彼らを赦したまえ。彼らは何をしているか分からないのですから」アーメン、そのとおりです。神の前に私たちは何をしているかわからないのです。

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