■ 「とりあえず・・・」 / ヨナ書3:1~10
聖書はつくづく不思議な書物と思います。ヨナは神さまに従わなかったため、挙句の果てに海に投げ込まれる結果となったとあります(と、ここまでは理解しましょう)。次にヨナは大きな魚に呑みこまれ、魚の腹の中で神に助けを叫び求めたのです。鯨のような魚とは思いますが、大真面目で書いています。昔の子供達は喜んで聞いてくれましたが、現代の子供たちには馬鹿にされそうです。でも、大人の私はこの部分を疑いません。それが魚であるかどうかの問題よりも、魚の腹が意味するところを探れるからです。真っ暗闇のような人生の1ページがあります。もがいても浮かび上がれない心の状態もあります。もし神がおられるならと、叫びたい時もあるからです。魚にこだわっていると、ヨナ書が語らんとしている真理を見過ごします。ならば何故そんな非現実的なことを記したのでしょうか?一つに、このユーモアがヨナという男をなんとも身近な存在として、私たちの心に置くのです。二つ目に愛国、亡国、滅亡という進展を仮想する中で、自分の生まれた国を愛すると言う当たり前の思想が悲壮なものだけでなく、ユーモアの内に私たちの胸に迫り、他人事で済まされないとの感情を浮かび上がらせるのです。
ヨナは神に背を押されるようにして、ニネベに行きました。12万の民が住むというこのアッシリヤの首都は行き巡るのに三日かかったと言われます。ヨナは神の仰せのとおりにメッセージをしました。それは「あと40日するとこの町は滅びる」というものでした。
ヨナは嫌々ながらメッセージを送ったのです。当然ですね。誰が自国を滅ぼす敵国の首都に行って、その町の滅亡の危機を訴えるでしょうか?幾ら神さまの仰せでもお断りでしょう?しかし、とりあえずヨナは語ったのです。すると、彼の言葉を聞いた者から順番に、果ては王様に至るまでのニネベの人たちが罪を悔い、断食をし、荒布に着替え、神に助けを求めたのです。ヨナのメッセージに力があったのではなく、神からの言葉が彼らの心を突き刺し、悔い改めに至らしめたのでした。
私たちは喜んで主に従うことや、自分から奉仕することこそが素晴らしい、という理想を追い求めます。それは当然ですが、多くの場合に喜んでいない自分の内側に出会います。
しかし、そこで神に出会うのです。そのところで人間の考えと異なる神の大きな愛に出会うのです。そんな時、悲観するのでなくかえって神をあがめて賛美しましょう。こんな小さい不従順な者さえも神が用いたい、と思っておられるからです。12万の民が、一人の不従順な男の福音のメッセージにさえ本気で聞き、罪から悔い改めて行く世界が開くのです。クリスチャンであっても、福音を語るに勇気がない、と思っておられる方がいましたら、気落ちする必要はありません。神があなたを用いられる時は必ずやってきます。あなたの思いやメッセージではなく、聖書の言葉を試してみましょう。神はそこに働いて下さるからです。