■ 「信仰の価値」 / 使徒の働き16章25~34
困難が語る二つのこと パウロ達は一人の女奴隷を解放しました。彼女はイエス・キリストの名によって、占いの霊から解放されたのですが、占いは悪霊への礼拝です。そして、日本人社会は様々な占いを好みます。占いは結局は、占い師に多額の報酬をもたらし、人々を惑わすだけです。人間の未来を知るのは創造主なる神のみです。悪い霊から解放された女性は魂も体も自由になったことでしょう。しかし、彼女によって金儲けをしていた者は、金づるを失ったので、パウロたちを役人に訴えました。パウロ達は鞭打たれ、鎖で牢獄につながれました。なんと気の毒でしょうか。キリストに仕えたのに、です。しかし、それには理由が伴ないます。パウロがキリストに仕えたから、です。イエスを主とすることは、後の時代も迫害があったからです。でも、重い病気や突然の悲しみは辛いです。それは理由が見つからないからです。愛なるキリストとの接点が見えて来ないことが、私たちにとっては本当に重い試練となるのです。そんな試練に置かれつつも、「神は愛なり」と賛美し、祈るクリスチャンは素晴らしいと思います。そして、そういう所に置かれた人たちであっても、賛美を与える神はもっと素晴らしいのです。
信仰の価値 では、信仰の価値はどんな時に表面化するのでしょう? それは不条理な状況に置かれた時、でしょう。思わず「神さま、なぜですか?」と口に出てしまいそうな時もあるでしょう。しかし、ここが信仰の価値を見る場所です。つまり、今日までキリストを信じて来たことの意味を知らされるのです。最悪の状況と環境、立場にあってこそ信仰は価値を発揮するのです。できれば何事もなく過ごしたいのですが、人生そうは行きません。やがて嵐も台風も、地震も起こります。真っ暗闇の日もやって来ます。その時のために、今の信仰の取り組みが力を発揮するのです。それは神を信頼する事への鍛錬、努力であって、単なる自己努力ではありません。信じつつもなかなか神を信頼できない私たちだからです。信じている人は多くても、信頼しきっている人は稀です。信仰の価値とは磨いて光る金ではなく、自我を捨て行く強さではないか、と思います。時はアテネオリンピックです。この世に残して行く金メダルと栄光のために選手達は何年も涙と汗を流しますが、私達は天のみ国を目指す信仰の取り組みを今日もすべきです。