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■ 「祈りは感情を替える」 / マタイ5:43~48

今も嫌われている私たち この夏、サッカーのアジアカップで熱い応援をされた方が少なくないと思います。目覚しい活躍をされた選手達に感動しました。アウェーでも自分たちが練習で培ったもの以上に素晴らしい戦いをしました。その中、中国の試合場で私たちが少なからず嫌悪感を覚えたことは、中国人ファンの過激な言動でした。戦後、60年近く経っても消えない日本軍と日本への憎しみと怒りでした。彼ら若い世代が戦争を知らずとも、心には深い傷跡を残しています。植民地拡充に伴ない蹂躙したアジアの国々にあっては、今も尚「憎き日本」なのです。一方、原爆で今も苦しみ続ける日本の人たちも少なくありません。しかし、その人たちは原爆に関しては、再び同じ苦しみ、同じ被害を与えないようにという、核廃絶を訴える声に徹していることに、辛い終戦記念日の中にあっても慰めを感じます。歴史は戻らないのです。戻らない限り、再び起してはならない過ちを認めつつ、同時に前向きに関係を正していくことが、戦争で死んだ方々へのせめてもの償いと思います。国と国、人と人の戦い、争いにあってもその要因は自己中心と利己的な考えによるものです。やはり、すべての人は罪を犯した(ローマ3:23)のです。そして、今も犯しつづけています。オリンピックの開会式、人間とは何という素晴らしい被造物でしょうか。そして何と悲しい生き物なのでしょうか。皆、神の形に似せて造られているのに。同じ時間、戦火を交える場所、人々がいます。地上に主の全面的支配がありますようにと、祈らざるを得ません。

あなたの敵を愛しなさい。 と、主イエスは言われました。敵を赦せとか、敵を受け入れよ、とは仰いませんでした。神の愛、アガペーの愛で敵を愛し、祝福しなさい、と言われました。敵に塩を送った昔の武将がいましたが、アガペーは違います。アガペーは赦し得ないものを愛することです。この愛、私たち人間は持っていませんし、培って行くことも出来ません。ただ、神に愛された自分、赦された自分に出会わない限り、知ることも出来ません。自分が神から受けた愛によって砕かれ、解かれた心でしか為し得ないものなのです。  この世は軍隊を捨てることは出来ないでしょう。当然、銃も爆弾もです。自分たちの国を守らねばならない環境だからです。犯罪者がいる限り、警察もなくなりません。そして聖書は戦争がなくなる、とも言いません。それどころか、やがては民族が民族に敵対すると言います。人々が神に帰る以外、本当の平安と平和が来ないのです。戦いの存続は神の愛が届かない人間の心がそうさせるのです。  今日、私たちの心に神からのアガペーが十分に届いているでしょうか?愛も赦しも与えることでしか価値観を持たないし、それ自体の力を発揮出来ません。具体的な愛の表現は本当に難しい・・・しかし、十字架は神の具体的愛の実践でした。愛がしっかり人間の心に届くようにと、神はご自身は大事な一人息子を見捨てたのです。

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