■「あなたはイエスを誰と言う?」 / マタイの福音書16:13~2
イエスが弟子達を前にし、自分のことに対して質問をしました。そこはピリポ・カイザリヤという場所で、岩山の裾野のような場所でした。大量の水が流れ出ている場所です。山の上には雪が積もっており、雪解け水が音をたてて流れています。 私は1988年、その場所に立っていました。不思議な思いを感じたことは、山には木が見えないのに、新鮮な水が洞窟の中から、ごうごうと流れ出て来ていたことです。その時、ツアーの牧師から、この聖書の箇所がメッセージされました。そして以後、この箇所を読む度に、あの時の風景が瞼に浮かんできます。
イエスは弟子に問われました。「人々はわたしのことを誰と言っているのか?」 色んな答えと意見が出てきましたが、弟子達のリーダー各であるペテロが、他の者より声を一段高く叫びました。「あなたは生ける神の御子、キリストです!」。 素晴らしい告白でした。他の者たちは呆気に取られたはずです。彼ら自身、特別な思いを持って、イエスを「先生」とか「主」と呼んではいましたが、まさかそこまで言い切れるとは、思いもしなかったのです。イエスはペテロに向かって言いました。「ヨナの子、シモン。あなたは幸いなり」。一方が、神の子キリスト!と言えば、一方は誰々の子!と言うように、丁丁発止のやりとりでした。とても気持の良い場面です。 実はこの部分こそが、私達現代のクリスチャンが立ち返る場所なのです。礼拝も毎週同じように出席しています。奉仕も継続しています。そして惰性的になっている教会生活でもあります。私のように牧師でさえも、特別な方を見失いそうな状況です。メッセージも神学理論の講義のような時が多々あります。果たして、ペテロのような「神の子告白」を活き活きと宣言できる信仰でしょうか?
続いてイエスは言われました。「ペテロよ、あなたにこのことを明らかにしたのは、人間ではない。天にいます我父なり」。 そうです。私という人間の思いとか決心が言わしめているのではなく、言わしめさせてくださる方がおられるのです。そうであるからこそ、活き活きと大胆に言えるのです。生きておられる神が、生きている私に働いて下さるとき、この生きた告白となるのです。そして、この告白こそが私たちに毎日必要であり、健康なクリスチャン生活の根幹、基盤です。 今日、あなたの信仰は脈を打っていますか?元気ですか?ペテロのように言えますか? 聖霊の風に吹かれるような、内側ですか?もし、そうでなかったら、マタイの福音書のこの箇所をもう一度読んで、イエスの問いに応答してみませんか?ペテロのように。神さまがあなたに明らかにしてくださいますように。