■「祈りは呼吸」 / ルカの福音書18:1~14
日本人ほど、祈る民族はいないのでは、と思いませんか? だって正月のお年玉葉書には皆さん、必ずそう書きますよね。もしかしたら、日本人が好きな言葉が「祈っています」なのかも知れませんが。 私がつくづく思うことは、クリスチャンにとって祈りとは、「呼吸」のようなもの、ということです。神を信じているからこそ、自然と祈りが言葉とか思いによって、なされるのではないでしょうか。神は生きておられるから、そして誠実な方だから、どんな祈りもイエスの名によって捧げられるものは、神はすべて聞いておられる、と信じます。信仰は神に対する信頼、と思います。信頼していればこそ、是非知っていただきたい。聞いて欲しい。かなえて欲しい。そういうものではないでしょうか?信仰が生きていると、祈りは自然と出てくる。しかし、信仰が死んでしまうと、祈らなくなる、というより、祈れなくなる。そこには神への信頼がないからです。
福音書は言います。あきらめずに、失望せずに、祈り続けなさい!やがてかなえられる日がくるからと。私たちはしばらく祈りつづけますが、事態に打開が見えないと、祈りを止めます。しかし、聖書が語るのは、「それでも祈り続けよ」なのです。祈りは格闘、戦闘のようです。神への不信仰、不信頼との戦いです。思いだしませんか?旧約の時代、ヤコブは神の使いと格闘し、「祝福してくれなければ、あなたを放さない」とまで言い、自分は肉体を傷められながらも、祝福を勝ち取ったことを。パウロは「祈りとは、霊の武具で身を固めつつ、戦うもの」であると、エペソ人への手紙に記しました。祈りましょう。祈りは神への献身、捧げものです。積み重ねられた祈りが香の煙と共に、神のみ前に立ち登り、神の裁きが始まった、と黙示録は言います。
もう一つ、大切なことがあります。それは祈る時の心、姿勢です。取る取税人とパリサイ人の対比をイエスさまが語られました。パリサイ人は隣りの取税人を見て、自分の正しさと比べさげすみました。一方の取税人は神殿から遠く離れて立ち、胸を叩いて呟いたのです。「神さま、こんな罪びとの私を赦して下さい・・」と。 祈ることの意味、祈れる恵み、様々考えさせられますね。祈れる、ということの恵みをもう一度考え、イエスさまの十字架に感謝します。そして、祈りはひたすら念じることでもなければ、呟きでもありません。祈る対象、相手の方である、聖書の神に向かって行くことです。自分の努力でなく、聞いて下さっている神の心を揺り動かすほどの思いで祈ることです。そして、イエスの名によって、です。罪びとの祈りですから、イエスの名によらねば、神様のところへは届かない、からです。