■「十字架を背負ったお父さん」 / マルコの福音書15:12~21
偶然? イエスが十字架につけられる過程が、「パッション」という映画で克明に表現されておりました。鞭打たれ傷ついた主は、もう歩けないほど弱っていたのです。そこへたまたま通りかかったクレネ人シモンと言う男が、イエスの十字架を運ばされました。彼は十字架を背負わされたのではなく、運ばされたのです。 私はシモンについて考えました。私は33歳でクリスチャンになりました。たまたま家内が一年ほど早く信仰に入ったからでした。教会へ通い始めて二ヵ月半、思いもかけないことが起こりました。1978年3月12日、神さまは聖書の中から、私に声をかけられました。 そして、私は神に応答を迫られたのです。そして、キリストを主とする、決心をしました。 以上、偶然でしょうか?たまたまでしょうか?聖書にあっては偶然という状況設定はありません。生きて働かれる神さまがおられるから、偶然などあり得ないのです。
ルポス 聖書は言います。「アレキサンデルとルポスの父でクレネ人シモン・・・・」 そしてローマ人への手紙の16章に出てくる名があります。「神によって選ばれた人、ルポス・・・・」そうです、シモンの息子、ルポスという可能性が多いにあるのです。 もしそうなら、あのクレネ人はイエスの十字架を、イエスに代わって運ばされました。担いだのです。そして、数十分の僅かな道のりでしたが、イエスに出会い、イエスを知ったのです。その場から逃げるように帰って行ったシモン、彼のその後の人生を聖書は一切語りません。しかし、「ルポスの父」と、敢えて書いたマルコの福音書が私達に伝えたかったことは、『あの十字架をかつがされたシモンは、イエスを主としてその後の人生を生きた。その家庭にはキリストを主とする信仰が根ざし、息子達は父の信じた救い主イエスを求め続けた。そして、主のしもべとして生きる人生を選んだ・・・』 これは想像でしかない、と言い切れないものがあります。なぜなら、父が信じるその後姿を見て、子供達もキリスト信徒としての人生を選ぶからです。それほど、父の信仰は子供達に大きな影響を与えます。子供の人生が良き人生であることを願う世のお父さんたち、クレネ人シモンが出会ったキリスト・イエスをあなたの主として、受け入れられませんか? 彼は決してあなたを捨てず、裏切りません。彼はあなたの重荷を背負って下さるのです。