■ 「そこにキリスト」 / ヨハネ9:1~38
この章はイエスに目をあけてもらった盲目の人に対する人間の心がテーマです。 盲目の人はイエスに泥を目に塗ってもらい、「シロアム」と言う池に行って洗ったところ、彼の目が開いたのです。でも、周囲の人たちはそれが信じられませんでした。 当然でしょう。我々も同じと思います。でも、「そこにキリスト」が関わって下さったことを考慮せねばなりません。以前の私、そして今の私は大袈裟に聞えるかも知れませんが、180°違います。 180°の違いは私の努力ではなくて、「そこにキリスト」が働いて下さったからです。
今や、目の見えるようになったその人は、責めたてられます。 「誰が、どのようにして、お前の目を開けたのか!」。 彼は幾度も弁明しました。「イエスと言う方が私の目に泥を塗り、シロアムの池に行って洗いなさいと言われ、そうしたら明いたのです」。 しかしユダヤ人指導者たちは、どうしてもそれを理解しようとしませんでした。彼らはその医学的奇跡よりも、イエスその方を受け入れられなかったからです。
ここに真理があります。 イエスをキリスト(救い主)として認める、受け入れることが出来なければ、どんな不思議も奇跡も素直に認められない、のです。 人間の生まれもった性格を変えることは殆ど無理です。でも生き方、考え方、思考経路、行動は変えられます。そしてその人は本来の自分を失ったのではありません。 カルト宗教は洗脳します。しかし、キリストはそれをしませんし、望みません。あなたはあなた、であって欲しいからです。 人生というページの空白に、問題の中心に、迷いの狭間にキリストをお迎えしませんか。「そこにキリスト」が介入されるなら、見えなかったことが見えてきます。