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旧約聖書/詩編
2017年1月1日
■バビロンの川の畔/詩編42:1~5
1977年、今から39年前のクリスマスの夜。 私が初めて、自らの気持ちで教会を訪問した晩だった。 9カ月前に家内がクリスチャンになって以来、前向きに教会とキリストを考えた日は一度としてなかった。 その晩も別に何らかの目的があったわけではないが、取り敢えず多少は前向きだった。...
詩篇116:1~15
2013年12月7日
■ B・C時代のキリスト者 / 詩篇116:1~15 (2013-12-08)
詩篇116:1節は新共同訳がピタリと嵌ったという思いがした。 「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞きわたしに耳を傾けてくださる。」 主は嘆き祈る私の声を聞き、首をかしげて耳を傾けてくださる、と彼は記した。 ここに彼の心を容易に想像できる。 ...
詩篇66:13~20
2012年9月23日
■ 霊と誠を尽くす礼拝 / 詩篇66:13~20 (2012-09-23)
聖書が求める礼拝とは・・・霊と誠をもって捧げる礼拝である。 礼拝する側が「気持ち良くなる」ことを求めるものとは、意味が大分違う。 礼拝には幾つかの姿がある。 教会などの群として行う礼拝。 家族で行う礼拝。 自分と主、1対1で行う礼拝。 ...
詩篇22:1~8
2012年3月11日
■ 不条理の谷で見る灯り / 詩篇22:1~8 (2012-03-11)
思えばこの世は不条理だらけである。 世界の平和、人々への平等等々、願った通りに行かないことが多すぎる。 ひたすら耐えなければならないときがあり、助けが見えないときがある。 絶望の二文字さえも感じられない厳しい局面がある。 ...
旧約聖書/詩編
2004年5月9日
■「神よ、なぜですか」 / 詩篇89:46~52
人はその人生で、誰もが悩み、苦しみがあります。神の民(クリスチャン)であるならば、苦しみが与えられた意味を知りたい、と思うのです。新約聖書の「へブル人への手紙」では、神はその愛する子(信仰者)に対し、ムチをもって懲らしめるが、それは憎しみの故ではなく、「子として扱っておられ...