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■平和の主は唯ひとり/ヨハネ8:1~18

人が誰かを裁くとき、裁きの基準は自分の価値観である。

たとえ彼がすべてを理性に委ねたにせよ、基準は自分である。

仲間の意見を参考にしたとしても、基準は自分である。

だとしたら、私達が誰かを裁くとき、同じ思いで自分を裁けるだろうか。

無理である。

利己的で自己中心な人間という生き物には無理である。

但し、たまに例外もあるとは言える。

ならば神であるイエスは、どういう目で人々を見ておられたのだろう。

彼はご自分だけで見られたのではない。

わたしは父なる神と見ている、といわれた。

だから間違いは犯さないと・・・

「あなた方は肉によって裁く」とも、いわれた。

肉とは、生まれながらの性質であり、通常は「質」(たち)という表現もある。

各人にとって一番厄介なものでもある。

厄介な質が横暴極まりない結果を招くことが悲劇の始まりだ。

裁判官ならこの世に幾らでもいるだろう。

だが、裁判官とて人間である。

弱さも欠けもあるだろう。

確かに法律に従って、彼は裁きを下す。

それでも間違いを犯すことはある。

法律自体、人間が作ったのだから。

イエスの前に姦淫の現場で捕まった女が引き摺り出された。

律法学者とパリサイびとがイエスを嵌めようと試した時だった。

ユダヤの律法なら、彼女は当然の如く石打ちの刑で殺されるが、それではイエスの説く神の愛が崩れる。

仮に彼女を無罪放免とするなら、イエスは律法に背くことになる。

何れの選択でもイエスは窮地に陥る。

「先生、あなたは女をどうせよと言われますか?」

イエスは群衆の真ん中にしゃがんで、指で地面に何か書いている。

人々は焦れてイエスに選択を催促した。

イエスは、ふと身を起こして人々にいわれた。

「あなた方の中で、罪の無い者が最初に彼女に石を投げなさい。」

そしてイエスは再び身をかがめると指で地面に書いておられる。

人々は瞬間、顔を見合わせた様だったが、やがて年長者から始めてひとりひとりその場から去って行った。

しばらくしてイエスは身を起こして女に言われた。

「婦人よ、あなたを罪に定め、石を投げる者はいなかったのですか。」

女は言った、「誰もいません。」

イエスは言われた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯さないように。」

人々も、パリサイびとも、律法学者も石を投げる権利を持たなかった。

彼らは、女とイエスに向けた「やいば」を、自らの人生と心に向けたとき、彼らは罪を悟らされた。

「罪無き者から、石もて投げよ!」

主の言葉である。

この言葉は私たちも忘れまい。

教会でも家庭でも社会でも。

アンリ・コルミエ師が、その著書に書いておられた。

『主よ、私は地上と天の あなたの教会を信じます。

あなたはそれを 有限で 罪びとで 弱くて 空しい人々に お委ねになりました。

こんなに大きな賭けを ユーモアをこめて為さっておられます。

あなたの御国が天と同様に 地上にも来ますように。』

2千年前、律法学者、パリサイびと、祭司長たちはイエスの前で罪を認めた。

現代の教会、牧師、神父、宣教師、教役者、そして信徒達も己が罪は認めている。

キリストを信じたからクリスチャンなのか。

キリストを信じたから教会なのか。

そうではないと思う。

私の中にイエスがおられること。

教会の中にイエスがおられること。

それが大事だ。

「罪なき者よ、汝こそ石もて投げよ!」

今日もイエスの言葉が響いて聞こえるように。

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