■ヤコブの涙/創世記29:1~14
創世記29章、荒野の危険な長旅の末、ヤコブが巡り合ったのが従妹のラケルという羊飼いの娘だった。
ヤコブは羊の水飲み場で出会ったラケルを確認したとき、そこに居た周囲の目も気にせず、彼女に口づけし、声をあげて泣いた、と聖書は記している。
何故、ヤコブは泣いたのか・・・
聖書物語に登場する人々の営み、それは単なるストーリーと人物ではなく、世界の人々に示された人間のサンプルである。
聖書とは神の御霊に動かされた人々が後世に遺された遺書、遺作品、つまり偉大なる遺産。
目には見えない神が、往時の記者達の心と魂と指を動かし、書き留められたのが聖書である。
登場人物は、いつの時代にもいるであろう生身の人間に共通した性質や癖、長所と欠点、を備えている人々だ。
聖書を読む側の人は、登場人物に自分を重ね合わせて読むなら、自分も遠い昔の、あの場所に息づいていることを実感するだろう。
一般の書物とは決定的に違う点が其処にある。
それは主なる神が書き遺された書物である。
そして何故、ヤコブは泣いたのか・・・
ならば自分をヤコブに重ね合わせ、物語の中に飛び込んでみたらどうだろう。
ヤコブは家の中で暮らすことが好きな人物で物静かなタイプであった。
母はそんなヤコブをエサウに比べて特に気に入っていた。
平和に見えた質素な家庭は或る日、ガタガタと音を立てて崩れ去った。
母の狡猾な策略が功を奏し、家督権は長男エサウではなく、リベカのお気に入りヤコブの手中に滑り込んだ。
神の祝福である長子の権利、祝福という嗣業の受け渡しに、人間の悪知恵が功を果たしたとき、ヤコブは家にみ続けることが出来ず、生まれて初めての一人旅に出ざるを得なかった。
荒野は野獣、盗賊に襲われる危険があり、常に死と背中合わせだった。
家を出て間もない或る夜、石を枕に仰向けになったとき、両親、そして兄の顔が浮かんだ。
寝付けないヤコブがうとうとしながら見た夢は、天から地に向けて掛けられた不思議な梯子だった。
見ると天のみ使いが梯子を上ったり下りたりしている。
ここで聖書は言う、「見よ!」と。
梯子に見とれていたヤコブのかたわらに、主がたっておられ、そして仰せられた。
そして聖書は再び言う。
「見よ!」と。
主は仰せられた。
「わたしはあなたの父、アブラハム、イサクの神、主である。」
主が仰せられたこと。
ヤコブの旅は主が守られること。
今、ヤコブが横たわっている、その地をヤコブとその子孫に与えること。
ヤコブの子孫は限りなく増え、地を満たすほどになること。
そして主はヤコブがどこに生きようと、決して見捨てず、約束は必ず果たされると。
文字通りあっけに取られて過ごした瞬間だった。
目覚めたヤコブは呟いた。
「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」
そして危険だらけの孤独で長い旅の果て、パダン・アラムという広大な地を踏んだ。
母の実家近くの井戸で従妹のラケルに出会った瞬間、それまでの緊張、恐れ、寂しさが一挙に吹き飛んだヤコブに最高潮の感動の大波が押し寄せたのである。
堪えることが出来なかった。
今、目の前の娘は自分と血のつながった存在。
この瞬間が無事にめぐってこようとは・・・
ヤコブは泣いた・・
常に穏やかな父を騙してしまった良心の呵責。
幼い時から遊び相手は双子の兄だったエサウの顔。
兄になりきって、兄が受けるべき長子の権利と祝福。
今となれば、あれは何だったのだろう・・・
そして、いつも自分を思ってくれた母リベカの笑顔。
脳裏に浮かんでは消える、愛するひとりひとりだった。
離れてみれば、心掻き毟られるほど懐かしく愛おしい家族。
憎しみなど微塵も無い家族に囲まれていたのに、今は見知らぬ土地の見知らぬ叔父家族のもと。
そして、ヤコブの人生が始まった。
イスラエルの歴史が始まった。
ヤコブもイスラエルも新しい旅への始まりであった。
パダン・アラムの地、メソポタミヤ北部の広大な地で、ヤハウェの嗣業が動き出したのである。